同じビート、異なる言葉:英語ラップと日本語ラップは何が違う?
長年、筆者が聴いてきたのは英語のラップだった。日本語ラップを本格的に聴き始めたのは、ほんの5〜6年前のことだ。
そこで待っていたのが、まさかの逆カルチャーショックである。
日本語でここまで巧みに韻を踏み、これほど多彩なフロウを生み出せるのか!
もちろん、それまで日本語ラップがなかったわけではない。知らなかったのはこちらだ。言葉の選び方、母音の響き、同じ音に重なる別の意味。聴き進めるほどに、長年親しんできた英語ラップにも、まだ聴き落としていたものがある気がしてきた。
英語ラップと日本語ラップは、何が違うのだろう。
手掛かりになるのは、音をどう区切るか、韻にどんな意味を重ねるか、誰の経験を語るかという三つの層だ。言語の仕組みだけでラッパーの表現が決まるわけではない。その仕組みを、どう使い、どう崩すのか。そこまで耳を近づけてみたい。
1. フロウの違いは、言葉の切れ目から聴こえてくる
フロウとは、言葉をビートのどこに置き、どこで詰め、どこで伸ばし、どこに間を作るかという、ラップの運び方のこと。使う言語が変われば、その材料になる音の組み立ても変わる。
英語では、単語のどの音節に強勢を置くかが重要になる。一方、日本語の東京方言などでは、音の高低の配置が単語のアクセントに関わる。ただし、日本語のアクセントには地域差がある。「英語は強弱、日本語は高低」とだけ覚えて、すべての声を同じ型に押し込めるのは早計だ。国立国語研究所の解説も、その方言差に触れている。普段の会話でのアクセントを、そのまま曲の中で守る必要もない。声の高さや強調する場所を変えることも、表現の一部になる。
もう一つ、日本語の音を考えるときに出てくるのが「モーラ」だ。
はい? モーラ? いきなり授業っすか?
例えば「ラッパー」なら、「ラ・ッ・パ・ー」で4モーラ。小さな「ッ」も、伸ばす「ー」も、一つとして数える。言葉の音を数える単位だと考えると、とっつきやすい。ただし、4モーラだから音楽の4拍ぶんになる、という意味ではない。言語の単位と、ビートの拍は別のものだ。
その違いこそ、ラッパーが遊べる場所になる。複数の音を一気に送り込む。語尾を引き延ばす。いつもの会話なら切らない場所で、あえて言葉を切る。文字で読めば同じフレーズでも、置き方を変えればビートとの関係が変わる。
音楽研究者Noriko Manabe(ノリコ・マナベ)は、2006年の論文『Globalization and Japanese Creativity: Adaptations of Japanese Language to Rap』で、日本語ラップの押韻やリズムの工夫を分析した。著者による研究概要では、和語・漢語・外来語という豊富な語彙、音の高低、モーラの特徴が、独自のフロウを生む材料として挙げられている。
「日本語はラップに向いていないのでは?」という問いに対し、音楽の側では、とっくにいくつもの答えが鳴っていたのである。
聴くときは、まず一つ、語尾の位置に注目してみてほしい。ドラムと一緒に着地するのか、少し先に出るのか、後ろへ残るのか。英語か日本語かを判定する前に、その人のフロウが見えてくる。
2. 「投資」と「凍死」——同じ音が、別の景色を見せる
日本語ラップにハマり始めたとき、特に面白かったのが同音異義語を使った言葉遊びだ。「とうし」なら、投資、凍死、闘志、透視。同じ読みでも、漢字を置けば景色が変わる。
Awich氏の『GILA GILA feat. JP THE WAVY, YZERR』では、YZERR氏のパートに「投資」と「凍死」が登場する。将来のビジネスに金を回すことと、ジュエリーにすべてを使った場合の寒さ。その対照を同じ音でつなぐ仕掛けだ。掲載歌詞で該当箇所を確認できる。
ここで筆者が面白いと感じるのは、単に二語の読みが一致することではない。金の使い道を語るくだりに、その二語が置かれていることだ。音が揃うだけでなく、話がつながっている。韻がリリックの中で働いているのである。
同じ音を繰り返しているのに、意味はその場にとどまらない。歌詞や表記を確認して、「えっ、そっちの意味もあったん?」となる。この、耳で受け取った言葉を目でもう一度聴くような感覚が楽しい。韻はまず音で成立し、漢字はその意味を読み分ける手掛かりになる。
もちろん、英語にも同音異義語やダブルミーニングはある。漢字があるから日本語の方が複雑、という話にはならない。
別の仕掛けも見てみよう。2010年のCBS『60 Minutes』の本人インタビューで、Eminem(エミネム)氏は「orange」と「door hinge」を響かせる実演をしている。
「投資/凍死」が同じ読みから意味を分ける例なら、こちらは離れて見える言葉を発音で近づける例だ。単語を辞書の中に置いたままでは見つからなかった組み合わせが、声に出すとつながる。その面白さは、漢字の見た目だけで韻を考えていたら取り逃がしてしまう。
これは日本語と英語の役割分担ではない。発音を工夫するラッパーは日本語にもいるし、英語にも同じ音から意味をずらす技法がある。言語ごとの特徴を知ったうえで、その人が音をどう動かしたかを聴きたい。
また、日本語の韻も同音異義語だけではない。異なる言葉の母音の並びを近づけたり、単語の境目をまたいで響かせたりできる。母音を響かせること自体は、日本語だけの技法ではない。同じ読みの言葉を探すことと、フレーズ全体で韻を組むことは、分けて聴くともっと面白い。
どの音が重なったか。その重なりで、何が言えるようになったか。 韻の数だけでなく、その二つを追いかけたい。
3. 二つの言語を使うラッパーは、その境目も音楽にする
では、英語も日本語も使うラッパーたちはどうだろう。同じ曲の中で言語が変わるなら、国ごとに別々の曲を並べるよりも、その切り替わりに耳を澄ませられる。
ただし、日英を混ぜることと、話者として両言語に同じ熟達度を持つことは別だ。ここでは「バイリンガル」という一つの札でくくるより、それぞれが音楽の中で言語をどう使っているかを聴いてみたい。
MIYACHI:切り替わる瞬間そのものが面白い
MIYACHI氏の楽曲『WAKARIMASEN』は、タイトルからして人を食っている。英語が分からないという日本語のフレーズを繰り返しながら、終盤では英語のラップも繰り出してしまう。
いやいや、英語、めちゃくちゃ分かってるじゃないっすか!
そのツッコミと一緒に、耳にも変化が起きる。日本語の反復に慣れたところで、英語のまとまりが流れ込む。言語の切り替え自体が、曲の展開として働くのだ。
2019年のFNMNLのインタビューで、MIYACHI氏は同年の同名アルバムについて、日本語と英語を両方使うバランスと、自身のストーリーを語ることに自分らしさがあると説明している。二つの言語は、器用さを見せるためだけに並んでいるのではない。
VERBAL、JP THE WAVY:言葉の境目を更新してきた世代
m-floの『been so long』や『come again』にも、日本語と英語が行き交う表現がある。言語が変わる前後で声の勢いや語尾の響きがどう続くか。そんな聴き方ができる。
2019年、MIYACHI氏とJP THE WAVY氏はm-floのアルバム『KYO』に参加し、VERBAL氏との音楽ナタリーの対談に登場した。VERBAL氏は、自分がラップを始めた頃に感じた型の窮屈さと、二人の表現が広げる可能性を語っている。
同じ日英ミックスでも、切り替えを目立たせるのか、滑らかにつなぐのかで聴こえ方は変わる。世代をまたいだ会話にも、言葉の使い方を自分たちで更新してきた時間が見える。
Daichi Yamamoto:翻訳ではこぼれる感覚を、日本語に込める
Daichi Yamamoto(ダイチ・ヤマモト)氏の話は、この比較をもう一歩先へ進めてくれる。
2024年のKENDRIX Mediaのインタビューで、彼は『Radiant』収録曲『ガラスの京都』について語った。英語の曲を日本語訳で読むと、元にあった感覚が失われることがある。その逆に、日本語を理解する人に届く美しさを書きたかったという。
日本語だからこそ届く美しさを書こうとする。その選択もまた、二つの言語を知るラッパーの表現の一つなのだ。
和訳を読んで内容が分かったとき、理解は確かに一歩進む。でも、元の声に戻ると、意味だけでは追い切れなかった響きが残っている。翻訳の価値と、翻訳では運びきれないもの。その両方を大切にしたくなる。
4. 語る言語と、生きてきた社会は一対一ではない
言葉の響きから、何を語るかへ目を向けてみよう。
ヒップホップは、1970年代のニューヨーク・ブロンクスで育った文化だ。黒人やラティーノの若者たちが作った表現の場という歴史を抜きに、世界共通の便利な音楽形式としてだけ扱うことはできない。ヴァージニア大学のヒップホップ史紹介にも、その出発点が記されている。
Public Enemy(パブリック・エナミー)の政治的な言葉、Nas(ナズ)が描く街、Kendrick Lamar(ケンドリック・ラマー)の個人と社会を行き来する視点。聴き手がその背景を知ることで、同じリリックが違って聴こえることがある。
日本語ラップにも、社会への怒り、貧困、地域への誇り、家族、孤独がある。米国は社会問題、日本は個人の感情——そんな分担表は作れない。どちらにも政治的な曲があり、内省的な曲があり、パーティーの曲がある。英語ラップを米国だけに、日本語ラップを日本国籍の人だけに限ることもできない。
文化人類学者Ian Condry(イアン・コンドリー)の『Hip-Hop Japan』は、東京のクラブやスタジオなどの「現場」に目を向け、日本でヒップホップが作り直される過程を描いた。出版社の紹介を読んでも、言語の違いだけでなく、そこで音楽を作り、聴き、評価する人々の関係が研究の軸になっていることが分かる。
声の表現は、言葉だけで完結しない。同じ「地元」でも土地の歴史は違う。同じ「怒り」でも、そこに至るまでの人生は違う。誰が、誰に向かって、どんな場所で語っているのか。その関係ごと聴いてみたい。
では、ヒップホップで繰り返される「リアル」とは、誰が決めるものなのだろう。
5. 「リアル」は、誰かと同じ人生を生きることなのか
Keep it real。聴き慣れた言葉なのに、何をもってリアルとするのかは、そう簡単ではない。
ストリートで育ったらリアルなのか。苦労が多ければリアルなのか。成功しても地元との関係を保つことか。それとも、自分の経験を偽らずに語ることか。
ここからは、筆者の考えである。誰かの苦労を、自分の本物らしさを証明する衣装にする必要はない。裕福な環境で育った人にも、その場所からしか見えないものがある。何を経験したかに加えて、その経験をどんな言葉で引き受けるかを聴きたい。
ただ、ラップには誇張も、架空の語り手も、ユーモアもある。歌詞をすべて実録として読み、事実と違う箇所を見つけたら即「フェイク」とするのも乱暴だ。どんな表現として差し出されているのか、聴き手との間にどんな了解があるのか。その文脈がいる。
MIYACHI氏やDaichi Yamamoto氏の話に戻ると、日本語を選ぶことも英語を選ぶことも、本人の経験に根ざし得る。一つの言語だけで語る方が自然な人もいる。複数の言語を行き来する方が、自分を曲げずにいられる人もいるだろう。
リアルを聴きたいのに、こちらが用意した「らしさ」へ相手を押し込めてはいないか。 国籍や発音で線を引く前に、聴き手の側にも返ってくる問いである。
雑感:日本語ラップを知った耳で、英語ラップに戻る
筆者は今も、日本語ラップに関しては若葉マークのリスナーだ。ただ、そのことを恥じるより、まだ知らない曲に出会える余地として楽しみたい。
次に好きな曲を流すときは、一度目は声の動きに、二度目は言葉の意味に耳を向ける。そして歌詞やインタビューを読んだら、もう一度、音へ戻ってみる。最初は気づかなかった韻や間が、そこで浮かび上がるかもしれない。
日本語ラップで覚えたその楽しみ方を持って、英語ラップに帰ってみる。今度は逆方向の発見が待っている。どちらかに詳しくなったつもりで、もう片方を分かった気になるには、まだまだ音楽が面白すぎるのだ。
同じビートの上でも、言葉が変われば景色が変わる。聴くこちらの耳が変われば、同じ曲の景色だって変わる。
文:Sei
関連コラム:ヒップホップを文化人類学視点で見ると、世界の見え方が変わる!
参照資料:Noriko Manabeによる論文概要/国立国語研究所「ことば研究館」/宇都木昭「音節とモーラ」/Ian Condry『Hip-Hop Japan』出版社紹介/FNMNL・音楽ナタリー・KENDRIX Media・CBS『60 Minutes』の本人インタビュー/歌ネット掲載歌詞/ヴァージニア大学。参照箇所へのリンクは各節に記載。

