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【HIPHOPCs独占インタビュー】現LAの大門弥生が4SHOOTERSへ|ICE SPICE,Sexyy Redと同列に立てた理由と今後

スターになるために生まれてきた人っているんだなぁ、というのが大門弥生さんと初めて会って話をした時の筆者の印象である。本人もこの仕事以外したことが無いと言っていたように、自分の魅せ方も、表現の仕方も、恐らく全て知り尽くしている。笑顔になる度に覗く、歯のグリルズ。口調はゆっくりでも、好きな話題になるとキラリと輝く瞳が印象的で、人を惹きつける魅力に溢れている。恐らく生粋のアーティスト、とは彼女のような人を指すのだろう。 ロサンゼルス1月土曜日の昼下がり。大門さんが指定したコリアタウンのタイ料理屋で待っていると、すらりと背の高い美しい女性が、可愛い娘さんを乗せたベビーカーを押して現れた。筆者も6歳児を連れて来たので、業界でもなかなか無い、子連れ同士のインタビューが始まった。ちなみに今回は、弊社の記事でもお馴染み、自他ともに認める大門弥生ファンのCook Oliver記者も日本からリモートでインタビューに参加してくれた。後半部分の、大門ファンならではの視点で切り込んだ彼の質問にも、大注目して欲しい。 大門弥生が大門弥生を語る! Sei:じゃあ、えっと、もうね、日本でブレイクしてヒップホップ界で知らない人はいないと思いますが、ヒップホップ若葉マークの読者さんのために簡単な自己紹介をお願いします。 大門:自己紹介。えーっと。歌を歌ってます。大門弥生です。歌とラップをしていますが、一応、シンガーソングライターです。 Sei:自分でも書いてるんですよね。 大門:はい。今は2024年からロサンゼルス在住です。 Sei:デビューは何年ですか? 大門:めちゃくちゃ遡ると、 2010年にガールズユニットでデビューしてて。rhythmicっていう今のK-POPアイドルの超初期ぐらいの時代にガールズユニットでデビューして、そっから三年ぐらいアイドルを経て、ソロに変更した感じです。 Sei:その時は歌って踊って? 大門:その時は歌って踊ってたけど、メインはダンス。で、そのもっと前は大阪のアンダーグラウンドのシーンでヒップホップダンサーをしてたんですけど。 Sei:それは何歳の時ですか? 大門:まあ、ほんと 16、17ぐらい。で、子供だったけど、大人に混じって夜のクラブでやってました(笑) Sei:夜のクラブで (笑)。なるほど。じゃあヒップホップにハマったきっかけって、元々はダンスから入ったってことですか? 大門 : そうですね。13歳の時にリアーナがデビューで日本に来日しに来て、確か大阪の難波Hatchだったかな?1000人ぐらいのベニューなんですよ。オールスタンディングで。13歳だったんで、ちょっと身長もちっちゃいじゃないですか。一番前行ったろーと思って、他のお客さんを掻き分けて一番前に行って、くらったことから入ってます。 Sei:生リアーナを。 大門:生リアーナを。一番前で。初、生黒人を体感した経験でしたね、その時。 Sei:リアーナやはり綺麗でした?可愛かったですか? 大門:もちろんですが、私はその時リアーナのダンサーがかっこよすぎて。 Sei:あー、なるほどね。 大門:一番前のステージでダンサーに触れれるかどうか。絶対やったらあかんけど。絶対やったらあかんけどって(笑)。 Sei:(笑)すごい!なるほど。そこからじゃあヒップホップというか、ダンスにはまって。 大門:はい。 Sei:シンガーソングライターっていうことなんですが、自分で書き始めたのはいつなんですか? 大門:本格的に書き始めたのはガールズグループの活動が終わってからで、でも本当にそれより前はダンスがメインだったんで、歌詞を聞くっていうよりかは、リズムを重視に音楽を聴いてきたんですよね。なので、結構書くのはもう、右も左もわからぬままって感じでした。 Sei:当時メンターみたいな人はいなかったんですか? 大門:一人出会った人がテクノを作ってる方で。その人にビートを教えてもらったりとかしたけど、歌詞は独学です。 Sei:独学なんですね。自己流で頑張ってたんですね。あの、歌の歌詞とラップのリリックスって全然違うじゃないですか。自分のバースもご自身で書いてるんですよね。 大門:はい 『ヒールで任王立ち』後のスランプ期 Sei:ラップを始めようと思ったきっかけは?歌から? 大門:うーん。もともとヒップホップ好きだったんで。なんか歌とラップとダンスの境界線は私の中であんまりなくて。いろんな曲をやってみたかった中、『ヒールで仁王立ち』って曲。 Sei:超有名ですよね。かっこよかったし、セクシーでしたよね。 大門:ありがとうございます。あの楽曲は、SHINGO★西成さんにプロデュースしてもらって、もちろん皆さんご存知だと思いますが、大阪の大先輩ラッパーで。私が書いた歌詞を、SHINGOさんがほぼほぼ添削してくださったんです。 Sei:私あの曲めっちゃ大好きで。しかもあの、関西弁ですよね。関西弁でラップっていうのがもう斬新でしたね。大ショックでした。素晴らしいとしか言いようがなかったです。 大門:ありがとうございます。私も大好きで。本当に素晴らしい歌詞だったからこそ、SHINGOさんに書いてもらったっていうのが。次何書けるねんっていうプレッシャーがでかすぎて。 Sei:ああ、そうなっちゃいますよね。 大門:で、ちょっとライターブロック(スランプ)みたいなのにかかってしまって、すごい書くのが難しい時期があったんですけど、その『ヒールで仁王立ち』の次に『NO BRA!』って曲を出して、そんときにちょうどライターズブロックにかかってて。 Sei:あらら。 大門:その時は収録も入って、もうレコーディングで収録されるから全部書かないといけない。でもどんだけ徹夜しても、全く思い浮かばない。 Sei:完全にスランプですね。 大門:はい。というのが続いて。で、もう結構ヤケになって、収録中に書き上げたのをプロデューサーのXLIIさんに見せたら「めっちゃいいじゃん」って言ってくれて。でも私はもうあのSHINGOさんの歌詞が凄すぎたことによって、自分から出てくる歌詞がもう全部最低ぐらいに思えちゃって。プレッシャーになってたんです。 Sei:そうなんですね…。大門さんにもそんな時期があったんですね。 大門:なんで、その時はそのプロデューサーの一言で救われたっていうか。救われて楽曲になって、ありがたいことに皆に愛される曲になったんですけど。それが一番結構ライターズブロックかかったかもしれない。最初の頃ですね。 Sei:最初の頃ですか。なるほど。じゃあもうそれがやっぱラッパーとして苦労した点というか、つらかった点の一つですか? 大門:そうですね。私その時本当に自分の中ではリリックス初心者だったんで、急に大先輩のアドバイスが出てきて、自分でも書けないような表現も書かせてもらって。もしかしたら日本のシーンの皆さんが私に注目してくれ出してた時期が、一番なんか書くのが辛かった時期と合致してたかもしれないです。 Sei:逆になんかこう、アーティストで良かったなって思う瞬間とかありますか? 大門:もう全部です。結構ちっちゃい頃から音楽やってたんで、むしろこの職業しかやったことがなくて。 高校卒業でデビューしたから。 なんか本当に音楽の仕事とダンスを教える仕事しかしてないんで、他の人生をあんまり想像できないんですけど。  でもやっぱライブが一番好きです。 Sei:もうアーティストになるために生まれてきたようなもんですね。 大門:(笑)ありがとうございます。そうだと嬉しいです。今はLA在住なので、やっぱ日本にいた時みたいに毎週毎週ライブがあってファンが来てくれてっていうことが一旦なくなってるから。 Sei:うんうんうん。でもそれはそれで、なんか人生の中の違う大事な時間を過ごしてるわけじゃないですか。 大門:なんか今、次のフェーズに行くための孤独みたいな。準備みたいな感じです。 https://youtu.be/WtBAsKYDApA?si=eriGO4iLkE-WVVbE 女性ラッパーとして感じること Sei:次のフェーズですか。なるほど。あの『ヒールで任王立ち』出ましたけど。あの強い女性像みたいな感じ。あれは自分で作ったキャラですか?それともリアルな大門さん? 大門:あれは正直、当時は憧れてた女性像だったんです。自分がなりたかった像。今は結構あれぐらいのモチベーションにはなってると思います(笑)。 Sei:(笑)ああ、そうですよね。なんかアメリカ住んでると強くなりますよね。 大門:なりますよね。あと、子供が出来て母になったのもあるし。 Sei:そっかそっか。あの、女性のつながりの質問なんですけど、日本もね、アメリカもそうなんですけど、HIPHOPって男性が強い業界じゃないですか。で、その中でも女性ラッパーって結構風当たりが強いじゃないですか。例えば男性ラッパーがエッチな歌を歌っても何にも言われないけど、女性ラッパーが歌うとなんか卑猥とかね。男性からも女性からも色々言われちゃうじゃないですか。なんかそういうことって日本にいて感じたことありますか? 大門:うん、昔はもうめっちゃありました。それこそダンサーは女の子が多かったけど、私、レゲエの界隈でもやらせてもらったんですよね。レゲエとHIPHOPは特にこの何年かは女の子がいっぱい増えてますし、自立してしっかりやってる子もめっちゃ多いけど、私がめっちゃ若い頃ってほぼいなかったんで。 Sei:そうですね。結構先駆者的な立ち位置でしたもんね。 大門:だから、うーん、なんか。差別まではいかないけど、不利に感じたりとかすることはすごくあって。だから多分...『ヒールで仁王立ち』みたいなちょっと強い像になりたかった、ていうのはめっちゃありました。 大門弥生が注目するアーティスト達 Sei:ありがとうございます。 リスペクトとか、好きなアーティストやラッパーいますか? 今注目してる方とかでもいいんですけど。 大門:注目してる人ですか?今 アメリカでやっぱアジア人として、ってなってきたらKHANTRAST っていう、中国人で移民で- ニューヨークでやってる方なんですけど。彼は移民としてアメリカに来たけど、いわゆる富裕層のリッチチャイニーズ、お金持ちのアジアンとして来たわけじゃなくて。ブロックリンで一から移民として成り上がってきたんだ、っていうのを歌詞にしてて。やっぱLAにみんな来るアーティストって、各国で成功した人が多いじゃないですか。だけど私は、やっぱりアメリカの音楽が好きで、こっちに基盤を移したくてやってきた。日本で自分が思った地位になってからアメリカに来たわけじゃなくて。(例えば他のアーティストみたいに)大勢のチームを連れて、派手にダーンってできるような感じで来たわけではなかったから。KHANTRASTの、移民の苦労とかストラグルというか……はめっちゃ共感するし。やっぱ今アメリカでもすごいK-POP が出てきてるけれど。 https://youtu.be/Hre1L9hFDvg?si=uHZeaq0QVQRjnEN_ Sei:そうですね、ここら辺(インタビューはコリアタウンで行われた)、LAにいっぱいいますもんね。韓国系アメリカ人ラッパーとかもね。 大門:その中で彼は結構、ほんと黒人のファンの方が多いぐらいと思います。それもめっちゃなんかアジア人として誇りというか。インスピレーションだし。女性だったらSAILORRは、やっぱ...彼女はベトナム系アメリカ人だけどアジアのカルチャーをしっかり出して。 https://youtu.be/st74boNsmEs?si=jMJ23RnzeUI658vb Sei:うん、うん、うん。 大門:彼女も多分ファンベースは黒人が多いと思うんですよ。R&Bなんで。だから、ああ、このジャンルでもアジア人が出てきたんだっていう驚きと嬉しさと。 Sei:アメリカも最近はアジア系のラッパーも多いですからね。 大門:やっぱちょっと前までって考えられなかったじゃないですか。  ちょっと先輩の世代になったら、アメリカに住んでるけど日本をベースにしないといけない、ぐらいの考えの人が多かったかもしれないけど。なんか、その枠すら今もう変わってきてる先駆者が出始めてるっていうのはかなりインスピレーションや希望にもなってますし、この時代にアメリカに住めていることが本当に光栄です。 Sei:大門さんがこっちでラップをするとしたら英語ですか?日本語ですか? 大門:今結構出してない曲たちは9割英語です。 Sei:9割英語なんだ。なるほど。楽しみです。でもなんか日本語と英語を混ぜてもなんかカッコ良さそうですよね。 大門:そうですね。混ぜても面白いですね。でもやっぱ一発で聴いてアメリカ人にも分かるようなスキルは身につけたいなと思って。 Sei:なるほど。楽しみにしてます。ここからは大門さんの大ファン、HiphopCsきってのイケメンライター、日本のCook Oliver記者と繋げますね。 原点、ジャパレゲの記憶 Cook:大門弥生さんは昔、ジャパレゲのイメージがすごく強くて。自分が中学生の時代に友達の家でジャパレゲが流れてて、シャッフルで絶対I-VANさんとコラボしていた時の楽曲が流れていたのが大門さんの初めての楽曲だったの覚えています。あの頃の大門さんにとって、音楽活動はどんな位置づけでしたか? 大門:ボンボクラー!!ありがとうございます。位置づけ。音楽活動はLife、仕事。うーん。あぁ、あの時は本当にソロでデビュー、ほんとデビュー作ぐらいなんです。そのやってもらってたI-VANさんとの楽曲が。『BAD JAPANESE』って曲なんですけど。いや、もう結構がむしゃらでした。 https://youtu.be/Xr5ZbPV_7KY?si=2OB9eXmiTzWe1aPQ Cook:がむしゃらだったんですね。次の質問です。ジャパレゲ全盛期に影響を受けたアーティスト、セレクター、サウンド、プロデューサーや(CHEHONさんとのSpicyも含めて)できれば当時の現場でのエピソードとか、大門さんのルーツなどに添えていただけるととてもありがたいです! 大門:私はめちゃくちゃジャパニーズレゲエの界隈で育ったわけではないんですけど、やっぱ大阪出身なんで、私がちっちゃい時はずっとジャパレゲが街で流れてました。一番最初の記憶は三木道三さんの『LIFETIME RESPECT』です。なんか、小学校のプールとか市民プールの時間にかかってて。めちゃくちゃ毎日流れてて、それが最初の出会いだけど、さっき言った通り、リアーナのコンサートに最初に行った時の衝撃がでかくて。その時なんかリアーナとかショーン・ポールとか、ポップのアーティストがダンスホールのインフルエンスを受けてる曲発売してるのがめっちゃ大きかったから。それは結構自分のベースかもしれない。なんかジャパレゲは自分が大人になってから完全に、その、界隈とコミュニティとして絡ませてもらえるようになって。一番尊敬してるのはMighty Crownさんです。 Cook:Mighty Crownさん。 大門:はい。みんなそうですかもしれないんですけどね。世界でバリバリやられてて。 転換点、シンガー、ラッパーの大門弥生 Cook:なるほど。 ありがとうございます。 ...

不屈の精神で挑み続ける京都発BrooklynラッパーR-Naby:紆余曲折ラッパー人生を赤裸々に語る

Brooklynのジャイアン。このラッパーを見た時の第一印象だ。米国の、ラッパー激戦区のNYで、セルフプロデュース力と不朽の精神でここまで登り詰めた日本人ラッパーは他にいないだろう。その名も、R-Naby(アール・ネイビー)。SNSでも有名な彼が西海岸にライブに来ると聞きつけたので、早速インタビューのアポを取った。 SNSではアンチらと互角に戦い、なかなか癖のある自己顕示欲が強めのメッセージを投稿しているので、この御仁に対しかなりバイアスがかかった、偏見したイメージが先行しているのは否めなかった。筆者も若干構えていたのだが、実際に会ったR-Naby氏は、豪快な見た目も、情に脆そうな雰囲気もジャイアンそのものであった。饒舌で話術に富んでいるものの、裏表無く自身の弱みや弱点も素直に晒け出せる、正直さも持ち合わせている。なんとなく面白くなりそうな予感を胸に抱きつつ、サンフランシスコでライブをしてそのままAmtrakで南下してきた彼と、彼の華奢で美しい奥様とLAのユニオン駅で待ち合わせをし、そのまま彼らの滞在先近くのスタバでインタビューを行った。 ラッパーR-Naby(アール・ネイビー)とは? Sei(以下S):今日はありがとうございます。NYで精力的に活動していらっしゃいますが、初めてという読者さんもいると思うので簡単な自己紹介をお願いします。 R-Naby(以下R):はい。1989年、京都府京都市西京区生まれ、京都育ち、18歳のころにラップを始め、Anarchy、Ryuzo、Magma MC’sに憧れ、京都でラップをスタートさせました。そこでそこからインディーズで5枚のアルバムを22歳までに出して、全国ツアーも28か所回って、京都と東京でリリースワンマン公演ライブを行って、その後2013年にアメリカに渡米して、そっから今に至ります。 S:じゃあ、東京で活躍したのは2011年とか2012年ですか? R:あ、そうですね。2012年から2013年の1年半くらいっす。 S:ヒップホップにハマったきっかけを教えてください。差し支えなければ生い立ちとかも教えて頂けますか? R:ヒップホップのきっかけは僕は13歳のころに、当時『8マイル』というEminemの映画が出て、そのDVDを買ったらその付録にCDがついていて、そこで50CentやEminem、DreやDMXとかTLCとか聴き始めて。姉が持っていたCDボックスの中にあったのが2Pac、Dreとかで、でも当時俺はあんまりヒップホップを知らなかったので、当時エミネムが大好きで彼を聴き始めたら『Stan』が流れてやばいじゃん、ってなって、そこからどんどんのめり込んでいって。 中学校1年2年で聴いたEminemと50centが強烈で、そこからDre、Snoop Dogg、Ice Cubeそれでも圧倒的に好きだったのが2Pacで、中1で13枚のアルバムをお金貯めて買って、そこからギャングスタヒップホップにハマっちゃって、当時の2pacの服装?赤い服にバンダナ巻いて、無地のロンTとSean Jeanのダボダボの履いて、1000円くらいで売ってる金のチェーンを… S:1000円!まあ子どもでしたからね(爆笑) N:そうそう。チェーンを2個ダブルチェーンにして(爆笑)サングラスも150円くらいのDAISOで売ってそうなやつをつけて、手をポケットに突っ込んで、ローソンの前でからあげクンを食べるっていう、不良ごっこをしていたのが入りです。 S:意外ですね。NYのNabyさんの入りがWest Coastだったとは。 N:恐らく当時はNYとか西海岸とか分かってないですね。50CentがNYとか根本的にNYどこ?みたいな。中一だったんで。単純に「かっこいい」ていうファッションや筋肉とかのいかつさ。そっから入って。場所とか関係なくて人物がかっこいいな、みたいな。 S:ラッパーなろうとしたきっかけは? N:元々俺16歳くらいからクラブ活動始めてて。その当時は女の子メインだったんですけど(笑)、その当時DJがクラブでめっちゃモテててたんすよ。今でもそうだと思うんですけど、DJがすごくカッコよく見えたんすよ。で、俺もやってみたいって姉ちゃんに相談したら、ターンテーブル買うお金を半分出してくれて。レコード買うのとかも協力してくれて。とりあえず16歳でクラブDJデビューしました。 S:若いのにすごいですね~。 N:で、そっからDJ シュウマとして活動するんですけど、やっぱ難しい!俺当時R&BのDJになりたくて。DJ Komoriさんみたいな感じに。でもミックスが難しくて気づいたら1曲終わったら1曲流す、みたいな。 S:普通のつなぎ…(苦笑)。 R:そうそう!それしていた時に自分が恥ずかしくなってきて。ダサいっていうの気づいて、やめようと。全然女の子にもモテねーし。当時レゲエダンサーで可愛い子がいて、その子と喋りたいと思って喋りに行ったら、その子が当時あった「プラスダンススタジオ」で教えているから、来なよってなって。その子目当てで行って、のめり込んだんですよ。その当時俺はスマートだったんで、結構身体が動いたんですよ。で、3か月後にダンスショーケースがあるから出ない?ってなって。 S:ダンサーシュウマの誕生ですか? R:ダンサーシュウマでお願いしますってなって。『SEED』って曲でDJ Lead君が経営してるクラブで初めてダンスしたんですよ。ダンスは1年間ぐらい頑張って。 S:それは…17歳くらいの時ですか? R:そうっす。でもやっぱ不良だったんすよね。ダンスしながら不良しながら、バイトしながら、結構大変だったんすよ。で、俺の1個上の先輩に地元のラッパーいたんですよ。ダンサーってモテるんですけど、俺みたいなペーペーは全然モテなくて、そういう話を先輩にしたら「ラッパーってめっちゃモテるよ」って言われて。「ホントっすかー?」ってなって1回限りでやってみろってなって。「来月イベントやるから、お前それに1回限りで出てみ?モテるから」って。 それで1回出てモテなかったら辞めようって思ったんですよ。その時名前を決めようってなって、DJシュウマ、ダンサーシュウマで来てるからシュウマはもういらんわ、ってなって。俺出身が洛西って地域なんですけど、頭文字がRだったんですよ。ぶっちゃけ名前はどうでも良かったんすよね。そのときMagmaのRyuzoさん、Anarcheyさんとかのレーベル名が『R-Rated Radio』って名前だったんでそれも文字って「R-なんちゃらにしよう」って。それでR-Navyってなったんですけど。俺、紺て色嫌いなんすよねーってなって。当時赤が好きだったんですけど、AK-69さんってアーティストがめっちゃ売れてて、京都と名古屋近かったからよくライブに来ていたんですよ。 S:うんうん。AKさんね。 R:あ、ラッパー=赤みたいに。赤が好きで赤のバンダナしたり、赤がめっちゃ好きで「紺」は好きじゃなかったから「(紺色のNavyの)V」を「B」に変えようってなって「R-Nabyにしよう」って。こんな感じにで深い意味が無く決まったんですよ。その当時、(ライブチケットの)ノルマが30人~40人だったんですけど、当時俺不良だったんで、年下にめっちゃ売らしたんですよ。あっという間に売れて、その会場がパンパンになって。すっごいその時解放感を感じたんです。 S:あー、その一回きりのはずのパフォーマンスがね。 R:めっちゃ盛り上がったんですよ。そりゃ後輩とかだから盛り上がりますよね。その後、来月・再来月このイベントやってるから出ろよって言われて「いいんすか?」って感じで。それが始まりです。そっからのめり込んだんです。18歳。 NYに渡った理由 S:18歳。なぜ、NYを選んだんですか?入りは西海岸ですよね? R:なぜNYかというと、これは大人の話になるんですけど、Visaのスポンサーがニューヨークだったから。それだけの話なんです。でもその経緯の方が大事で、なんでアメリカに行ったかっていう話なんですけど。 S:そうですね。なんでアメリカに行ったんですか?聞かせてください。 R:結局はインディーズレーベルで、京都でずーっとやって全国ツアーも出来るようになりました。で、手売りで2000枚売ったんですよ。地元で。それは、後輩に手伝ってもらったんですけど、精力的に動かして、それでお金も稼ぎたかったんです。それを何回か繰り返して、自分の主催イベントで、有名な人が来てくれるようになったんですよ。AK君とかも俺が19歳くらいから来てくれるようになったんすよ。今では大御所になったHokutoさんとか呼べるくらいになったんですよ。やっとAnarchy君主催のイベントにも若手で3年間くらい入ってたんですよ。やっと行ける!みたいなもしかしたら俺メジャー契約できるんじゃないかな?みたいに勝手に思い込んでて。大阪のラッパーとか当時の神奈川のラッパーとかメジャーレーベルからリリースしてる人が増えていったんですよ。でも、俺だけが「あれ?」みたいな感じで。京都でもワンマンしたし、東京でもワンマンしたし。結果、なーんも声かからず。すごい「俺は大物になる!」みたいなこと言ってても現実は…。 S:それは、挫折みたいな感じですか? R:そうそう。めっちゃ偉そうなこと言ってるけどその割には結果がついて来ていない、みたいな。でもやっぱ当時21歳とか何で、悔しくて。あと、その時2チャンネルでもめっちゃディスられてたんすよ。 S:2チャンネルかぁ(笑) R:2チャンネルで3万レスくらいついて。めっちゃディスられて一時はもう家から出られないくらい落ち込んじゃったんですよ。 S:え!今の鋼のメンタルはどこに? R:その当時は豆腐メンタルというか昆虫のメンタルでして(爆笑) 今でも5千レスくらいはアーカイブ残ってるんじゃないかな?その当時Twitterが流行りだして。俺、女好きだったんで、R-NabyじゃなくてH-Naby(エッチ・ネイビー)とか言われて。それがネットで広まるんすよ。あいつは色んな女に手を出してる、みたいな噂流れてそれプラス2チャンネルで書かれて。「俺、終わった~」って感じになったんです。真面目に運送屋で働こうかとかまで思ったんですよ。でも同時に、仲間らが色んな悪いものを売るからいろいろツケが溜まるんすよね。京都のヒップホップはギャングの世界だったんで、売り切れなかったら「ヘタこく」ヘタ料金が凄かったんすよ。でも生き残るにはそうするしかなかったんですよ。俺その時クレジットカード切りまくってたんですよ。借金地獄になっちゃったんすよ。ホントの話、俺姉に「自殺する」って言ったんです。 S:それは、21歳の時? R:そうっす。借金が凄すぎて、精神的にも落ちて落ちて落ちて…ってなった時に、借金はあるし、もうこれ以上音楽は出来ない!ってなったんですよ。次は親に迷惑をかけるし苦しめることになるから、俺はあんま日本にいない方がいいんじゃないかって思いだして。でも、それを世間には言えない。借金があるとか。だから調子に乗って「NYに挑戦する!」とか言っちゃったんですよ。そしたら「あいつNY行くらしいぜ」ってそれがドンドン広まっちゃって。 S:(大爆笑)引き返せなくなっちゃった。 R:しまいには、親にも言ってなかったから姉から聞いたらしくて親も「あんたNY行くんだって?」って聞かれて。VISAとかそういう話は今弁護士としてる、とか伝えて。当時、ラッパーとしての実績もあったし、コネもあったので、色々お金を払えば大丈夫だったんです。それで上手いこと渡米出来て。 でも、内心は成功できなかった、借金があった自分を隠す理由だったんですよ。 S:そうなんですね…。こんな赤裸々に話して頂いてありがとうございます。めっちゃリアルですね。 R:今だから言えるんです。全てチャラになったから。そのまま、ここですね。それがきっかけです。 S:SNS上で見るR-Nabyさんの印象と違いますね。で、NYへ。なるほど。 R:実際はNYの1年後ロス(ロサンゼルス)に来ようと思ってたんすよ。Facebookにも書いてましたし。 S:でも結局NYに13年滞在している、と。 R:だからそろそろ…って思ってます。 NYでのラッパー生活のリアル:オープンマイクに挑戦 S:ヒップホップカルチャーに溶け込んでいくにあたって、ライブハウスに毎晩飛込みしていたとかお話し聞きましたが、苦労した点とかお話を聞かせて頂けますか? R:俺の場合はNYに先輩がいなかったんですよ。例えばDJだったら当時先輩がNYにいっぱいいて、DJは比較的しやすかったと思うんですけど、ラッパーの先輩っていなかったんですよ。当時居たのが、Omen44君ってラッパーだったんですけど彼が唯一知っている日本人ラッパーだったんですよ。その前がBuddha Brand世代だったんで。でもOmen君俺とは12歳くらい離れてるし、もうそろそろ彼もリタイアって感じだったんですよ。その時に出会ったんですよね。でも、俺は日本で上下関係とかいろいろ揉めてきたんで変なプライドがあって「日本人の力は絶対使わない!」って思ってたんですよ。日本人とはつるまないって感じで。 でもNY来た当時は英語もしゃべれない、お金もない。お金は30万しか持って来なかったんすよ。でも、その30万のうち家賃の敷金で10万引いたら20万しか残らなくって。俺アメリカ到着の次の日からキャバクラで働いたんですよ。NYに午後3時に着きました。スーツケース持ったそのまま5時に面接行ってるんですよ。俺NJに住んでいたのにそっからどうやってタイムズスクエア行くんだ?ってなって。行き方分からなかったからとりあえずタクシー乗って。よくタクシーはぼったくられるって言うけど、その時150ドルくらいかかって案の定ぼったくられて(笑)。で、それ引いたら17万くらいしかないんすよ(恐らく当時1ドル=100円くらいの為替相場と想像する)。 そのキャバクラのバイトは週250ドル、賄い付きで結構良くて3か月くらい頑張ったんすよ。でも、3か月後くらいから「俺、何しにNY来たんだろ?」って自問自答が始まって。俺、キャバクラボーイになるために来たんじゃないってなって。その時Facebook見ていたらなぜだかオープンマイクの動画が急に上がってきて。オープンマイクとは?ってなって。1曲サインアップして、並んでみんなの前で歌うってイベントがあるってのが分かって。とりあえず探しに行こうと思って。 S:おお、スゴイなぁ行動力が。 R:で、すぐ調べて次の日に色んなライブハウス…200件くらいは入って「I wanna Sing! Do you have open mic?」って聞いて。そのオープンマイクが出来る場所がやっと見つかって。『Freestyle Monday』ってイベントが毎週月曜日Brooklynにあると。で、それに俺毎週通うことになったんですよ。色んなラッパーが来るわけですよ。当時50人くらいと情報交換して、今日はここでオープンマイクしています、今日はここでやってるみなシェアを始めるんです。それがどんどん広がって行って、その時にパッと閃いたのが、これ毎日やったら面白いんじゃない?365日オープンマイクってヤバくない?ってなって。 S:やばいやばい。 R:でも、金がないと。ボーイの仕事って夜じゃないですか。 S:オープンマイク行けないですよね? R:ということは、仕事変えないとだめだねってなって。俺、辞めたんですよ。 S:はや! R:俺、「炙り焼き金之助」って飲食店の皿洗いの仕事が朝5時から午後3時まであって。賄い付きがあって。そっちの方が良いってなって。で、これみんな聞くんですけど、俺本当に毎日行ったんですよ。というか、毎日オープンマイクがあったのが、当時のニューヨークだったんですよ。多い時は一日4件はしごして。思えば俺はラッキーだったんですよね。だって今オープンマイクやってないっすから。あんまり。 一日1件は必ずどこかでやってて。毎日やってるとこもあったんですよ。 S:それはどれくら続けたんですか? R:えっとね、約2年…1年8ヶ月です。でも、そこから、だんだん自分に懐疑的になるんですよ。毎日オープンマイクやってるけど、俺はもっと上に行きたい。どうしたら次俺は、フライヤーに名前が載るのか?どうやったら黒人と共に一緒に並べてライブが出来るのか?ということを考え始めた時に、たまたまブッキングエージェントとオープンマイクで出会ったんですよ。 S:おー、運命! R:それが『More Booking Agency』ていうNYででかいブッキングエージェント会社なんです。そこでAggy(アギー)って奴が俺の担当者になったんすよ。俺めっちゃ嬉しくて。契約書も読まずに契約しちゃって(笑)。でも蓋開けたらフライヤープロモーション全てエージェントが用意する。その代わりノルマが全イベント15万以上。でもフライヤーには名前が載る。だからそこでアーティスト力をつけて、上に行けるだけのことを学んでください、みたいな感じが書いてあって。それがあればファンも聴く人も増えるから、と。でも俺はとりあえずフライヤーに名前がクレジットされかった。で、とりあえず2年やる、と。日本で言うノルマ地獄でしたよ。 S:それは何歳くらいの時だったんですか? R:NY来て丁度4年目くらいですね。25歳~26歳の頃ですね。でもね、だんだん呼べなくなってくるんですよ。じゃあたまにはチケットが20ドル。15枚売ると300ドルなんすよね。もう自腹ですよ。 S:ああ…そこで地獄が始まるんだ…。 R:でも、昼間のバイトはずっと極めていたんで、レストランのスキルが上がってきたんですよ。皿洗いからどんどん下剋上して。 S:え、調理とかも? R:めちゃめちゃしました。その時は俺ラーメン屋のセカンドシェフにまでなっていました。でも、その時は週800ドルくらいキャッシュでもらっていて、当時としては悪くない給料で稼いでいて。でも、ノルマ地獄で。且つレコーディングもしなきゃいけないし。 そこからノルマ地獄を2年間過ごしてたんですけど、ちょっと話を戻してボーイ時代にUniversalの関係者がNYのキャバクラに遊びに来たんですよ。その時俺は覚えていなかったんですけど、その人が俺に何になりたいの?って聞いたら「俺ここで有名になりたいんすよ」って目をガンガン光らせて言ったらしくて、その人となぜかFacebookを交換したんです。それからその人ずーっとおれの活動をFB通じて見てくれていて。俺の活動を知っていて2017年の2月3月くらいにFBから連絡が来て。で、どこかと契約していなければUniversal Gearの方で契約どうですか?って。それでそこで日本のメジャー(レーベル)と繋がったんです。 S:それが…27歳の時? R :そうっす。2017年の2月。そこから今に至るっていう。 S:そのNYのブッキングのアギーさんとは? R:まだ超仲良いです。たまーにイベント出るくらいですけど。でももうノルマとか一切ないので。 こうしていれば良かった談とA-Thugさんについて S:あのR-Nabyさんといえば、SNSでアンチと戦ったり、私の中で「我が道を突き進む鋼のメンタル」っていう印象が強いんですが、こうしておけば良かったな?みたいな経験はありますかね? R:こうしておけば良かった…は、プライドを捨ててもっと日本人とつるんでいれば良かったって思いますね。そうしたらもうちょっと違う景色があったんじゃないかなって。俺は黒人とつるむって道を選んだから、それはそれで間違いではないんすよ。でも、俺は日本人をシャットダウしちゃったんで、それは良くなかったかなって思います。今となれば。 S:今の周りのホームボーイズは皆非日本人ですか? R:そうっすね。ここ最近日本人コミュニティにも関わるようにしようとしてるんで。俺素直になれなかったんですよ。 S:でもそういう方、けっこう海外に住んでいる日本人に多くて。やっぱ日本人とつるまないで頑張る!みたいな方もいるんですけど。やはりセーフティネットというか、最後頼りになるのは日本人だったりすることもあるのでね。 あの日本人繋がりになりますが、NYには今A-Thugさんとか活躍されているじゃないですか? R:活躍はしてないです(大爆笑) S:活躍されてないんですか?フリースタイルバトルとか、オープンマイクとかも? R:彼は「自分音楽作ってるだけだから」って言ってて。ライブも1回だけかな?そのOmen君のイベントで。 S:A-Thugさんとコラボ予定とかないんですか? R:彼とは俺の『So Japan』をリミックスをさせてくれ、と頼まれたんですけど。それは無理なんですよ。 S:何でですか? R:いや、『So Japan』があるから今の自分がある、くらいの曲なんでこれがあるからNYで戦えてるし、色んな人と出会えてるし、そんな安い曲じゃないんですよ。今じゃない、っていうか。でも他の曲だったら是非コラボしたいですね。俺、彼に色々バイトも紹介しているし(笑) S:なるほどね。 R:でも彼からは、「R-Naby君は有名な日本人アーティストと一緒に何かやったら絶対バズるから!」とは言われましたね。 S:あー、わかるような気がします。ではこの記事を読んだ日本のアーティストさんから連絡が来ると良いですね(笑) R:もう30後半でもうプライドとかなんも無いですからね!ブレイキングダウンとか、ラップスターとか出てみたいですし。 https://youtu.be/2MhabTIZMEw?si=_wsngQ-fAaHklXIN 新アルバム『Self...

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2026年2月第1週|今週のヒップホップニュース総まとめ – Number_iはWME契約で、Red Eyeはマイクで超境

対象期間:2026年1月30日〜2月6日 via @_redeyeofficial_ @number_i.official instagram 文責:Rei Kamiya 2026年2月第1週。ヒップホップ史の教科書に太字で刻まれる1週間が、終わろうとしている。 日本では、Number_iが世界最大手タレントエージェンシーWME(William Morris Endeavor)との契約を発表し、グローバル展開を本格化させた。同時に「3XL」でBillboard Japan Hot 100首位を獲得し、チャートでの存在感を一段と強めている。だが、まさにそのチャート支配に対して、日本のヒップホップコミュニティからは「覚悟を決めてきていただいた方がいい」(Zeebra)、「チャート荒らし」(BabyWoodRose)という声が先週から噴出し続けている。 一方、同じ「越境」でもまったく異なるルートを選んだ者たちがいる。日本のラッパーNillNicoとRed Eyeが、韓国のラッパー発掘オーディション番組に参戦し、審査を通過した。企業契約による「上からの越境」と、実力一本で異国のステージに立つ「下からの越境」──今週、日本のヒップホップは3つの方向に同時に境界線を越えた。 海外では、日曜日のグラミーと金曜日の「伝説的リリース」が交差した。Kendrick Lamarがグラミー賞で5冠を達成し、通算受賞数は**「主要メディアの集計(受賞歴データベースを参照)」で27とされ**、ラッパー最多受賞クラスに到達した。J. Coleは10年越しの最終作『The Fall-Off』を24曲ダブルアルバムとしてリリース──朝からSNSはリリックの解読でパンク状態だ。**Ye(Kanye West)**は『Bully』をまたも延期したが、反ユダヤ主義への公式謝罪とGammaとの流通契約で「贖罪と再出発」を宣言。そしてA$AP Rockyの8年ぶりの新作『Don't Be Dumb』がBillboard 200首位を走り続けている。 今週の出来事は、単なる個別のトピックではない。「越境の方法は一つではない」「記録は誰のものか」「最終章はどう刻まれるか」「贖罪は音楽で可能か」「ジャンルの境界線は誰が引くのか」──この問いが、国内外を横断していた。 今週の結論 今週の中心は越境と清算だ。 日本のヒップホップが3つの異なるルートで同時に海を渡った──Number_iはWMEとのエージェント契約で企業インフラによるグローバル展開を宣言し、NillNicoとRed Eyeは実力一本で韓国のラップオーディションを突破し、Creepy Nutsは2曲目のRIAAゴールドとコーチェラ出演で「持続的な越境」を証明した。これは前例のない1週間だ。 同時に、北米シーンでは歴史の塗り替えと清算が並走した。Kendrick Lamarがグラミー受賞数でラッパー最多クラスに到達し、J. Coleが10年間の沈黙を破って「最終作」を世に出した。2010年代の"Big...

2026年1月第4週|今週のヒップホップニュース総まとめ – Zeebraの問いかけ「ヒップホップとは何か?」

対象期間:2026年1月24日〜1月30日 via @zeebra_the_daddy /@__rykey__923 instagram 2026年1月第4週、日本のヒップホップシーンは「定義」をめぐる根源的な問いに直面した。ZeebraがNumber_iのチャート独占に言及し、「ヒップホップと名乗る覚悟」を問うた。同時に、RYKEYDADDYDIRTYが1年4ヶ月の懲役刑で収監され、「リアルであること」の代償を身をもって示した。 一方で、TOKONA-Xのドキュメンタリー世界配信とCreepy Nutsの北米ツアー発表は、日本のヒップホップが「国内サブカルチャー」から「世界で通用するコンテンツ」へ移行しつつあることを示す。 海外でも、謝罪と再定義、そして“語る権利”をめぐる争いが続いた。J. Coleは「Kendrickへの謝罪」を自分の言葉で回収し、Cardi Bは法廷での“印象操作”に釘を刺させ、50 Centは“人生の物語の権利”をめぐる争いが再燃した。  今週の出来事は、単なる個別のニュースではない。「誰がヒップホップを名乗れるのか」「リアルさとは何か」「日本のシーンは世界でどう語られるのか」──この3つが、国内外を貫いていた。 ⸻ 今週の結論 今週の中心は、Zeebraの発言によって「ヒップホップの定義」という議題が公に提示されたことにある。これはNumber_i個人への攻撃ではなく、チャート構造やジャンル区分という制度設計の問題として読むべきだ。 同時に、RYKEYDADDYDIRTYの収監は、「リアルであること」の美学が持つ両義性を可視化した。才能と破滅が隣り合わせのキャリアは、シーンに複雑な感情を残す。 そして、TOKONA-XドキュメンタリーとCreepy Nuts北米ツアーは、日本のヒップホップが「国内の文脈」から「国際的な語り」へ踏み出し始めたサインである。 ⸻ 〖0〗今週の地図(最初の10秒で掴む) トピック 何が起きた? 重要度Zeebra × Number_i論争 チャート独占に「覚悟」を問う発言。構造問題が浮上 ★★★★★RYKEYDADDYDIRTY収監 1年4ヶ月の懲役刑。「リアル」の代償が可視化 ★★★★★TOKONA-Xドキュメンタリー Amazon Prime Videoで世界配信開始 ★★★★☆Creepy Nuts北米ツアー “入口”を超え、北米へ本格進出...

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2026年2月第2週|今週のヒップホップニュース総まとめ:般若「卒業」と¥ellow Bucks「Zepp問題」、日本のヒップホップが直面する壁

文責:Rei Kamiya via @hannyaofficial/@yellowbucks instagram 対象期間:2026年2月6日〜2月13日 今週の日本──般若が「卒業」で内的な決断を迫られ、¥ellow Bucksは「Zeppも借りれん」で制度の壁を可視化、Number_iはWME契約でジャンルと市場の境界を拡張した。海外──J. Cole『The Fall-Off』初週約30万ユニットで最終章の重みを証明、Bad Bunnyはハーフタイムショー1.28億人(Nielsen確定値)で越境の最大規模を更新。論点──壁の種類が違えば、議論も分岐する。今週はその多層性が一斉に露呈した。 イントロダクション:越境の先にあった壁 先週、日本のヒップホップは3方向に同時に国境を越えた。Number_iはWME契約で、NillNico・Red Eyeは韓国のオーディションで、Creepy Nutsは2曲目のRIAAゴールドとコーチェラ出演で。越境の方法論が問われた1週間だった。 今週、シーンは全く異なる角度から揺れた。テーマは境界線だ。 般若が卒業を宣言し、キャリアの内側にある線と向き合った。¥ellow Bucksのリリックが、大規模会場を借りられないという制度的な壁を可視化した。Number_iのWME契約の裏側では、滝沢秀明社長の1年以上に及ぶ水面下の交渉プロセスがFRIDAYによって明らかになり、企業越境の設計図が見えた──同時に、ヒップホップか否かという文化的議論は世界市場へ拡張された。 海外では、J. Cole『The Fall-Off』が初週約30万ユニットで最終作の価値を数字で証明し、Bad Bunnyのハーフタイムショーが1.28億人の目に焼きついた。 越境するためには、まず壁が見えなければならない。今週は、その輪郭が一斉に浮かび上がった。 今週の結論 今週の核心は、日本で同時多発的に顕在化したヒップホップの定義をめぐる多角的な問いにある。 般若と¥ellow Bucksはリアルと社会規範の衝突──内側の壁を、Number_iはWME契約を通じてジャンルと市場──外側の壁を浮き彫りにした。FRIDAYの報道は、その外側の壁を越えるために滝沢社長が2024年12月から1年以上かけて交渉を重ねていた事実を明らかにした。 壁の種類は一つではない。般若は個人の、¥ellow Bucksは制度の、Number_iはジャンルと市場の壁に直面している。日本のシーンが成熟し多様化する中で避けては通れない成長痛だ。 〖0〗今週の地図(最初の10秒で掴む) 主要トピック核心重要度般若「卒業」宣言約1年ぶり新曲「卒業 (feat. 柊人)」リリース。何を卒業するのか──ラスボスの真意にSNSが沸騰。★★★★★→読む¥ellow Bucks Zepp問題「Zeppも借りれん生憎」──楽曲「What The Fuck」でZeppを名指し。過去の逮捕歴と会場利用の見えない壁。★★★★★→読むNumber_i WME契約の"裏側"滝沢社長が'24年12月に渡米、1年以上の交渉。「3XL」で国内5曲目の首位も、ジャンル論争は新局面へ。★★★★★→読むJ....

【2026年2月20日配信】Baby Keem『Ca$ino』全曲解説|千葉雄喜・SEEDAと重なる沈黙の美学

via @keem instagram 千葉雄喜が3年黙って、「Team Tomodachi」で帰ってきた時のこと、覚えてますか。SEEDAが13年ぶりにアルバムを出した時の衝撃も。日本のヒップホップって、黙ってる時間が長いラッパーほど、戻ってきた時にとんでもないものを持ってくると思いませんか? いま太平洋の向こうで、まったく同じことをやろうとしてるラッパーがいます。 Baby Keem。新作『Ca$ino』を2026年2月20日にリリースします。前作『The Melodic Blue』から4年以上。全12曲。従兄弟のKendrick Lamarも参加。これ、ただの新譜じゃないです。 沈黙から復帰が強い理由 Baby Keemの話に入る前に、日本のシーンを振り返らせてください。ここ2年で長い沈黙のあとに名盤を出すパターンが立て続けに起きてるんです。しかも全部、ちゃんと結果を出してる。 千葉雄喜(元KOHH)——名前を捨てて、世界に届いた 2020年にKOHHとしての引退を宣言。2021年末にラストライブをやって、そこから約3年、本当に消えました。文學界にエッセイを寄稿したり、服屋を開いたりはしてましたけど、音楽としての「KOHH」は完全にゼロにした。 で、2024年2月に突然出てきたのが「Team Tomodachi」です。名義はKOHHじゃなくて本名の千葉雄喜。ビートを手がけたのは徳島のラッパーWatsonの仕事でも知られるKoshy。この曲がバイラルして、そこからの展開がすごかった。Megan Thee Stallionの「Mamushi」でBillboard Hot 100にチャートイン。Will Smithがリミックスに参加。2025年7月には武道館ワンマンを成功させてます。 3年間何もしなかったんじゃなくて、KOHHという殻を脱いで、千葉雄喜として生まれ直す時間だったわけです。結果的に、沈黙前よりはるかにデカくなって戻ってきた。 Skaai——『Gnarly』。12曲で「クラシック」と呼ばれたアルバム ヴァージニア州生まれ、大分育ち。九大の研究者でもあるSkaaiが2025年末にリリースした『Gnarly』は、全12曲・約35分。生楽器を多用したジャジーなサウンドに、スキルフルなラップが乗る。批評家から日本語ラップのクラシックになると言われてます。これ、リリース直後からそういう評価なので相当です。 ちなみにこの12曲という曲数、Baby Keemの『Ca$ino』と完全に同じです。20曲超えがストリーミング時代の定石になってる中で、あえて絞ってくる。偶然かもしれないですけど、日米のアーティストが同じ時期に同じ判断をしてるのは面白いです。 Baby Keem『Ca$ino』——4年の沈黙が生んだ12曲 ここからBaby Keemの話です。2026年2月10日、Instagramのストーリーでいきなりアルバムを発表しました。タイトルは『Ca$ino』。レーベルはpgLang / Eerie Times / Columbia Records。リリース日は2月20日。 直前まで動きはほとんどなかったんです。Governors...

2026年グラミー殿堂入り作品発表!2Pac、Eric B.&Rakim、Selena、Janet Jacksonらが選出

米レコーディング・アカデミーは2月11日、2026年のグラミー殿堂(Grammy Hall of Fame)入り作品14点を発表した。今回はアルバム9作品、楽曲5作品が選出され、発表から25年以上を経た、音楽的・歴史的に重要な録音が顕彰される。 そして特筆すべきは、選出作品は約1世紀にわたる録音史を網羅していることだ。ヒップホップ、ロック、R&B、ジャズ、ゴスペル、フォーク、児童音楽まで幅広いジャンルが含まれている。 ヒップホップ、R&B系アルバム部門では、2Pac(2パックno)『All Eyez On Me』、Selena(セレーナ)『Amor Prohibido』、Janet Jackson(ジャネット・ジャクソン)『Rhythm Nation1814』が選ばれている。そして楽曲部門では、Eric B&Rakim(エリック・B & ラキム)『Paid In Full』、ゴスペルグループのThe Soul Stirrers(ザ・ソウル・スターラーズ)『Jesus Gave Me Water』らが殿堂入りした。ちなみに『All Eyez On Me』と『Rhythm Nation...

コラム

Lil Wayneがグラミーに選ばれなかった理由──『Tha Carter VI』

via @Lil Wayne instagram 2026年のGrammy Awardsが終わった。 その夜、Lil Wayneは短く一言だけ言った。「Congrats to the nominees and winners. Wasn't included. As usual.」 祝福と自嘲が同じ一文に同居する。たった12語で自分の立ち位置を正確に言い当ててしまうあたりが、やはりこの男はリリシストなのだと思い知らされる。そしてこの言葉のトーンこそが、2026年のグラミーとヒップホップの関係——いや、もっと広く「賞と開拓者の関係」そのものを映し出している。 まず、その夜何が起きたかを整理する Kendrick Lamarが主要部門を席巻した。Best Rap Albumは『GNX』、Best Rap Songは「tv off」、Best Melodic Rap Performanceは「luther」。さらに「luther」はRecord...

【速報】2026年グラミー賞が証明したもの。Kendrick Lamar「27冠」と37年間の闘争史

via @kendricklamar @feliciathegoat instagram 1989年のボイコットから2026年の戴冠へ、ヒップホップとグラミーの複雑な関係を読み解く 最終更新:2026年2月3日 16:00| Ito Kotaro 1989年のボイコットから2026年の戴冠へ、ヒップホップとグラミーの複雑な関係を読み解く 序章:「いつも通りのヒップホップ」という宣言の重み 2026年2月1日、ロサンゼルスのCrypto.comアリーナ。第68回グラミー賞授賞式のステージで、Kendrick Lamarは静かに、しかし確信に満ちた声でこう語った。 「ヒップホップは常にここにいる。俺たちはスーツを着て、カッコよく決めて、仲間と一緒に、カルチャーと共に立っている」 この瞬間、38歳のコンプトン出身のラッパーは、Jay-Zの25勝を超え、グラミー史上最多受賞ラッパーとなった。通算27勝。彼はこの歴史的快挙を「hip hop as usual(いつも通りのヒップホップ)」と表現した。 この言葉には二重の意味が込められている。一つは、ヒップホップがグラミーで成功を収めることが「当然」であるべきだという主張。もう一つは、37年にわたる闘争の末に勝ち取った「日常」への到達宣言である。 本稿では、2026年の結果を起点に、ヒップホップとグラミー賞の複雑な歴史を振り返りながら、この「転換点」が何を意味するのかを多角的に考察する。 第1部:2026年グラミー賞——「支配」の夜 Kendrick Lamar:4冠達成と歴史的記録 第68回グラミー賞で、Kendrick LamarはBest Rap Album(『GNX』)、Best Rap Song("tv off" feat. Lefty Gunplay)、Best Melodic Rap Performance("Luther"...

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