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不屈の精神で挑み続ける京都発BrooklynラッパーR-Naby:紆余曲折ラッパー人生を赤裸々に語る

Brooklynのジャイアン。このラッパーを見た時の第一印象だ。米国の、ラッパー激戦区のNYで、セルフプロデュース力と不朽の精神でここまで登り詰めた日本人ラッパーは他にいないだろう。その名も、R-Naby(アール・ネイビー)。SNSでも有名な彼が西海岸にライブに来ると聞きつけたので、早速インタビューのアポを取った。 SNSではアンチらと互角に戦い、なかなか癖のある自己顕示欲が強めのメッセージを投稿しているので、この御仁に対しかなりバイアスがかかった、偏見したイメージが先行しているのは否めなかった。筆者も若干構えていたのだが、実際に会ったR-Naby氏は、豪快な見た目も、情に脆そうな雰囲気もジャイアンそのものであった。饒舌で話術に富んでいるものの、裏表無く自身の弱みや弱点も素直に晒け出せる、正直さも持ち合わせている。なんとなく面白くなりそうな予感を胸に抱きつつ、サンフランシスコでライブをしてそのままAmtrakで南下してきた彼と、彼の華奢で美しい奥様とLAのユニオン駅で待ち合わせをし、そのまま彼らの滞在先近くのスタバでインタビューを行った。 ラッパーR-Naby(アール・ネイビー)とは? Sei(以下S):今日はありがとうございます。NYで精力的に活動していらっしゃいますが、初めてという読者さんもいると思うので簡単な自己紹介をお願いします。 R-Naby(以下R):はい。1989年、京都府京都市西京区生まれ、京都育ち、18歳のころにラップを始め、Anarchy、Ryuzo、Magma MC’sに憧れ、京都でラップをスタートさせました。そこでそこからインディーズで5枚のアルバムを22歳までに出して、全国ツアーも28か所回って、京都と東京でリリースワンマン公演ライブを行って、その後2013年にアメリカに渡米して、そっから今に至ります。 S:じゃあ、東京で活躍したのは2011年とか2012年ですか? R:あ、そうですね。2012年から2013年の1年半くらいっす。 S:ヒップホップにハマったきっかけを教えてください。差し支えなければ生い立ちとかも教えて頂けますか? R:ヒップホップのきっかけは僕は13歳のころに、当時『8マイル』というEminemの映画が出て、そのDVDを買ったらその付録にCDがついていて、そこで50CentやEminem、DreやDMXとかTLCとか聴き始めて。姉が持っていたCDボックスの中にあったのが2Pac、Dreとかで、でも当時俺はあんまりヒップホップを知らなかったので、当時エミネムが大好きで彼を聴き始めたら『Stan』が流れてやばいじゃん、ってなって、そこからどんどんのめり込んでいって。 中学校1年2年で聴いたEminemと50centが強烈で、そこからDre、Snoop Dogg、Ice Cubeそれでも圧倒的に好きだったのが2Pacで、中1で13枚のアルバムをお金貯めて買って、そこからギャングスタヒップホップにハマっちゃって、当時の2pacの服装?赤い服にバンダナ巻いて、無地のロンTとSean Jeanのダボダボの履いて、1000円くらいで売ってる金のチェーンを… S:1000円!まあ子どもでしたからね(爆笑) N:そうそう。チェーンを2個ダブルチェーンにして(爆笑)サングラスも150円くらいのDAISOで売ってそうなやつをつけて、手をポケットに突っ込んで、ローソンの前でからあげクンを食べるっていう、不良ごっこをしていたのが入りです。 S:意外ですね。NYのNabyさんの入りがWest Coastだったとは。 N:恐らく当時はNYとか西海岸とか分かってないですね。50CentがNYとか根本的にNYどこ?みたいな。中一だったんで。単純に「かっこいい」ていうファッションや筋肉とかのいかつさ。そっから入って。場所とか関係なくて人物がかっこいいな、みたいな。 S:ラッパーなろうとしたきっかけは? N:元々俺16歳くらいからクラブ活動始めてて。その当時は女の子メインだったんですけど(笑)、その当時DJがクラブでめっちゃモテててたんすよ。今でもそうだと思うんですけど、DJがすごくカッコよく見えたんすよ。で、俺もやってみたいって姉ちゃんに相談したら、ターンテーブル買うお金を半分出してくれて。レコード買うのとかも協力してくれて。とりあえず16歳でクラブDJデビューしました。 S:若いのにすごいですね~。 N:で、そっからDJ シュウマとして活動するんですけど、やっぱ難しい!俺当時R&BのDJになりたくて。DJ Komoriさんみたいな感じに。でもミックスが難しくて気づいたら1曲終わったら1曲流す、みたいな。 S:普通のつなぎ…(苦笑)。 R:そうそう!それしていた時に自分が恥ずかしくなってきて。ダサいっていうの気づいて、やめようと。全然女の子にもモテねーし。当時レゲエダンサーで可愛い子がいて、その子と喋りたいと思って喋りに行ったら、その子が当時あった「プラスダンススタジオ」で教えているから、来なよってなって。その子目当てで行って、のめり込んだんですよ。その当時俺はスマートだったんで、結構身体が動いたんですよ。で、3か月後にダンスショーケースがあるから出ない?ってなって。 S:ダンサーシュウマの誕生ですか? R:ダンサーシュウマでお願いしますってなって。『SEED』って曲でDJ Lead君が経営してるクラブで初めてダンスしたんですよ。ダンスは1年間ぐらい頑張って。 S:それは…17歳くらいの時ですか? R:そうっす。でもやっぱ不良だったんすよね。ダンスしながら不良しながら、バイトしながら、結構大変だったんすよ。で、俺の1個上の先輩に地元のラッパーいたんですよ。ダンサーってモテるんですけど、俺みたいなペーペーは全然モテなくて、そういう話を先輩にしたら「ラッパーってめっちゃモテるよ」って言われて。「ホントっすかー?」ってなって1回限りでやってみろってなって。「来月イベントやるから、お前それに1回限りで出てみ?モテるから」って。 それで1回出てモテなかったら辞めようって思ったんですよ。その時名前を決めようってなって、DJシュウマ、ダンサーシュウマで来てるからシュウマはもういらんわ、ってなって。俺出身が洛西って地域なんですけど、頭文字がRだったんですよ。ぶっちゃけ名前はどうでも良かったんすよね。そのときMagmaのRyuzoさん、Anarcheyさんとかのレーベル名が『R-Rated Radio』って名前だったんでそれも文字って「R-なんちゃらにしよう」って。それでR-Navyってなったんですけど。俺、紺て色嫌いなんすよねーってなって。当時赤が好きだったんですけど、AK-69さんってアーティストがめっちゃ売れてて、京都と名古屋近かったからよくライブに来ていたんですよ。 S:うんうん。AKさんね。 R:あ、ラッパー=赤みたいに。赤が好きで赤のバンダナしたり、赤がめっちゃ好きで「紺」は好きじゃなかったから「(紺色のNavyの)V」を「B」に変えようってなって「R-Nabyにしよう」って。こんな感じにで深い意味が無く決まったんですよ。その当時、(ライブチケットの)ノルマが30人~40人だったんですけど、当時俺不良だったんで、年下にめっちゃ売らしたんですよ。あっという間に売れて、その会場がパンパンになって。すっごいその時解放感を感じたんです。 S:あー、その一回きりのはずのパフォーマンスがね。 R:めっちゃ盛り上がったんですよ。そりゃ後輩とかだから盛り上がりますよね。その後、来月・再来月このイベントやってるから出ろよって言われて「いいんすか?」って感じで。それが始まりです。そっからのめり込んだんです。18歳。 NYに渡った理由 S:18歳。なぜ、NYを選んだんですか?入りは西海岸ですよね? R:なぜNYかというと、これは大人の話になるんですけど、Visaのスポンサーがニューヨークだったから。それだけの話なんです。でもその経緯の方が大事で、なんでアメリカに行ったかっていう話なんですけど。 S:そうですね。なんでアメリカに行ったんですか?聞かせてください。 R:結局はインディーズレーベルで、京都でずーっとやって全国ツアーも出来るようになりました。で、手売りで2000枚売ったんですよ。地元で。それは、後輩に手伝ってもらったんですけど、精力的に動かして、それでお金も稼ぎたかったんです。それを何回か繰り返して、自分の主催イベントで、有名な人が来てくれるようになったんですよ。AK君とかも俺が19歳くらいから来てくれるようになったんすよ。今では大御所になったHokutoさんとか呼べるくらいになったんですよ。やっとAnarchy君主催のイベントにも若手で3年間くらい入ってたんですよ。やっと行ける!みたいなもしかしたら俺メジャー契約できるんじゃないかな?みたいに勝手に思い込んでて。大阪のラッパーとか当時の神奈川のラッパーとかメジャーレーベルからリリースしてる人が増えていったんですよ。でも、俺だけが「あれ?」みたいな感じで。京都でもワンマンしたし、東京でもワンマンしたし。結果、なーんも声かからず。すごい「俺は大物になる!」みたいなこと言ってても現実は…。 S:それは、挫折みたいな感じですか? R:そうそう。めっちゃ偉そうなこと言ってるけどその割には結果がついて来ていない、みたいな。でもやっぱ当時21歳とか何で、悔しくて。あと、その時2チャンネルでもめっちゃディスられてたんすよ。 S:2チャンネルかぁ(笑) R:2チャンネルで3万レスくらいついて。めっちゃディスられて一時はもう家から出られないくらい落ち込んじゃったんですよ。 S:え!今の鋼のメンタルはどこに? R:その当時は豆腐メンタルというか昆虫のメンタルでして(爆笑) 今でも5千レスくらいはアーカイブ残ってるんじゃないかな?その当時Twitterが流行りだして。俺、女好きだったんで、R-NabyじゃなくてH-Naby(エッチ・ネイビー)とか言われて。それがネットで広まるんすよ。あいつは色んな女に手を出してる、みたいな噂流れてそれプラス2チャンネルで書かれて。「俺、終わった~」って感じになったんです。真面目に運送屋で働こうかとかまで思ったんですよ。でも同時に、仲間らが色んな悪いものを売るからいろいろツケが溜まるんすよね。京都のヒップホップはギャングの世界だったんで、売り切れなかったら「ヘタこく」ヘタ料金が凄かったんすよ。でも生き残るにはそうするしかなかったんですよ。俺その時クレジットカード切りまくってたんですよ。借金地獄になっちゃったんすよ。ホントの話、俺姉に「自殺する」って言ったんです。 S:それは、21歳の時? R:そうっす。借金が凄すぎて、精神的にも落ちて落ちて落ちて…ってなった時に、借金はあるし、もうこれ以上音楽は出来ない!ってなったんですよ。次は親に迷惑をかけるし苦しめることになるから、俺はあんま日本にいない方がいいんじゃないかって思いだして。でも、それを世間には言えない。借金があるとか。だから調子に乗って「NYに挑戦する!」とか言っちゃったんですよ。そしたら「あいつNY行くらしいぜ」ってそれがドンドン広まっちゃって。 S:(大爆笑)引き返せなくなっちゃった。 R:しまいには、親にも言ってなかったから姉から聞いたらしくて親も「あんたNY行くんだって?」って聞かれて。VISAとかそういう話は今弁護士としてる、とか伝えて。当時、ラッパーとしての実績もあったし、コネもあったので、色々お金を払えば大丈夫だったんです。それで上手いこと渡米出来て。 でも、内心は成功できなかった、借金があった自分を隠す理由だったんですよ。 S:そうなんですね…。こんな赤裸々に話して頂いてありがとうございます。めっちゃリアルですね。 R:今だから言えるんです。全てチャラになったから。そのまま、ここですね。それがきっかけです。 S:SNS上で見るR-Nabyさんの印象と違いますね。で、NYへ。なるほど。 R:実際はNYの1年後ロス(ロサンゼルス)に来ようと思ってたんすよ。Facebookにも書いてましたし。 S:でも結局NYに13年滞在している、と。 R:だからそろそろ…って思ってます。 NYでのラッパー生活のリアル:オープンマイクに挑戦 S:ヒップホップカルチャーに溶け込んでいくにあたって、ライブハウスに毎晩飛込みしていたとかお話し聞きましたが、苦労した点とかお話を聞かせて頂けますか? R:俺の場合はNYに先輩がいなかったんですよ。例えばDJだったら当時先輩がNYにいっぱいいて、DJは比較的しやすかったと思うんですけど、ラッパーの先輩っていなかったんですよ。当時居たのが、Omen44君ってラッパーだったんですけど彼が唯一知っている日本人ラッパーだったんですよ。その前がBuddha Brand世代だったんで。でもOmen君俺とは12歳くらい離れてるし、もうそろそろ彼もリタイアって感じだったんですよ。その時に出会ったんですよね。でも、俺は日本で上下関係とかいろいろ揉めてきたんで変なプライドがあって「日本人の力は絶対使わない!」って思ってたんですよ。日本人とはつるまないって感じで。 でもNY来た当時は英語もしゃべれない、お金もない。お金は30万しか持って来なかったんすよ。でも、その30万のうち家賃の敷金で10万引いたら20万しか残らなくって。俺アメリカ到着の次の日からキャバクラで働いたんですよ。NYに午後3時に着きました。スーツケース持ったそのまま5時に面接行ってるんですよ。俺NJに住んでいたのにそっからどうやってタイムズスクエア行くんだ?ってなって。行き方分からなかったからとりあえずタクシー乗って。よくタクシーはぼったくられるって言うけど、その時150ドルくらいかかって案の定ぼったくられて(笑)。で、それ引いたら17万くらいしかないんすよ(恐らく当時1ドル=100円くらいの為替相場と想像する)。 そのキャバクラのバイトは週250ドル、賄い付きで結構良くて3か月くらい頑張ったんすよ。でも、3か月後くらいから「俺、何しにNY来たんだろ?」って自問自答が始まって。俺、キャバクラボーイになるために来たんじゃないってなって。その時Facebook見ていたらなぜだかオープンマイクの動画が急に上がってきて。オープンマイクとは?ってなって。1曲サインアップして、並んでみんなの前で歌うってイベントがあるってのが分かって。とりあえず探しに行こうと思って。 S:おお、スゴイなぁ行動力が。 R:で、すぐ調べて次の日に色んなライブハウス…200件くらいは入って「I wanna Sing! Do you have open mic?」って聞いて。そのオープンマイクが出来る場所がやっと見つかって。『Freestyle Monday』ってイベントが毎週月曜日Brooklynにあると。で、それに俺毎週通うことになったんですよ。色んなラッパーが来るわけですよ。当時50人くらいと情報交換して、今日はここでオープンマイクしています、今日はここでやってるみなシェアを始めるんです。それがどんどん広がって行って、その時にパッと閃いたのが、これ毎日やったら面白いんじゃない?365日オープンマイクってヤバくない?ってなって。 S:やばいやばい。 R:でも、金がないと。ボーイの仕事って夜じゃないですか。 S:オープンマイク行けないですよね? R:ということは、仕事変えないとだめだねってなって。俺、辞めたんですよ。 S:はや! R:俺、「炙り焼き金之助」って飲食店の皿洗いの仕事が朝5時から午後3時まであって。賄い付きがあって。そっちの方が良いってなって。で、これみんな聞くんですけど、俺本当に毎日行ったんですよ。というか、毎日オープンマイクがあったのが、当時のニューヨークだったんですよ。多い時は一日4件はしごして。思えば俺はラッキーだったんですよね。だって今オープンマイクやってないっすから。あんまり。 一日1件は必ずどこかでやってて。毎日やってるとこもあったんですよ。 S:それはどれくら続けたんですか? R:えっとね、約2年…1年8ヶ月です。でも、そこから、だんだん自分に懐疑的になるんですよ。毎日オープンマイクやってるけど、俺はもっと上に行きたい。どうしたら次俺は、フライヤーに名前が載るのか?どうやったら黒人と共に一緒に並べてライブが出来るのか?ということを考え始めた時に、たまたまブッキングエージェントとオープンマイクで出会ったんですよ。 S:おー、運命! R:それが『More Booking Agency』ていうNYででかいブッキングエージェント会社なんです。そこでAggy(アギー)って奴が俺の担当者になったんすよ。俺めっちゃ嬉しくて。契約書も読まずに契約しちゃって(笑)。でも蓋開けたらフライヤープロモーション全てエージェントが用意する。その代わりノルマが全イベント15万以上。でもフライヤーには名前が載る。だからそこでアーティスト力をつけて、上に行けるだけのことを学んでください、みたいな感じが書いてあって。それがあればファンも聴く人も増えるから、と。でも俺はとりあえずフライヤーに名前がクレジットされかった。で、とりあえず2年やる、と。日本で言うノルマ地獄でしたよ。 S:それは何歳くらいの時だったんですか? R:NY来て丁度4年目くらいですね。25歳~26歳の頃ですね。でもね、だんだん呼べなくなってくるんですよ。じゃあたまにはチケットが20ドル。15枚売ると300ドルなんすよね。もう自腹ですよ。 S:ああ…そこで地獄が始まるんだ…。 R:でも、昼間のバイトはずっと極めていたんで、レストランのスキルが上がってきたんですよ。皿洗いからどんどん下剋上して。 S:え、調理とかも? R:めちゃめちゃしました。その時は俺ラーメン屋のセカンドシェフにまでなっていました。でも、その時は週800ドルくらいキャッシュでもらっていて、当時としては悪くない給料で稼いでいて。でも、ノルマ地獄で。且つレコーディングもしなきゃいけないし。 そこからノルマ地獄を2年間過ごしてたんですけど、ちょっと話を戻してボーイ時代にUniversalの関係者がNYのキャバクラに遊びに来たんですよ。その時俺は覚えていなかったんですけど、その人が俺に何になりたいの?って聞いたら「俺ここで有名になりたいんすよ」って目をガンガン光らせて言ったらしくて、その人となぜかFacebookを交換したんです。それからその人ずーっとおれの活動をFB通じて見てくれていて。俺の活動を知っていて2017年の2月3月くらいにFBから連絡が来て。で、どこかと契約していなければUniversal Gearの方で契約どうですか?って。それでそこで日本のメジャー(レーベル)と繋がったんです。 S:それが…27歳の時? R :そうっす。2017年の2月。そこから今に至るっていう。 S:そのNYのブッキングのアギーさんとは? R:まだ超仲良いです。たまーにイベント出るくらいですけど。でももうノルマとか一切ないので。 こうしていれば良かった談とA-Thugさんについて S:あのR-Nabyさんといえば、SNSでアンチと戦ったり、私の中で「我が道を突き進む鋼のメンタル」っていう印象が強いんですが、こうしておけば良かったな?みたいな経験はありますかね? R:こうしておけば良かった…は、プライドを捨ててもっと日本人とつるんでいれば良かったって思いますね。そうしたらもうちょっと違う景色があったんじゃないかなって。俺は黒人とつるむって道を選んだから、それはそれで間違いではないんすよ。でも、俺は日本人をシャットダウしちゃったんで、それは良くなかったかなって思います。今となれば。 S:今の周りのホームボーイズは皆非日本人ですか? R:そうっすね。ここ最近日本人コミュニティにも関わるようにしようとしてるんで。俺素直になれなかったんですよ。 S:でもそういう方、けっこう海外に住んでいる日本人に多くて。やっぱ日本人とつるまないで頑張る!みたいな方もいるんですけど。やはりセーフティネットというか、最後頼りになるのは日本人だったりすることもあるのでね。 あの日本人繋がりになりますが、NYには今A-Thugさんとか活躍されているじゃないですか? R:活躍はしてないです(大爆笑) S:活躍されてないんですか?フリースタイルバトルとか、オープンマイクとかも? R:彼は「自分音楽作ってるだけだから」って言ってて。ライブも1回だけかな?そのOmen君のイベントで。 S:A-Thugさんとコラボ予定とかないんですか? R:彼とは俺の『So Japan』をリミックスをさせてくれ、と頼まれたんですけど。それは無理なんですよ。 S:何でですか? R:いや、『So Japan』があるから今の自分がある、くらいの曲なんでこれがあるからNYで戦えてるし、色んな人と出会えてるし、そんな安い曲じゃないんですよ。今じゃない、っていうか。でも他の曲だったら是非コラボしたいですね。俺、彼に色々バイトも紹介しているし(笑) S:なるほどね。 R:でも彼からは、「R-Naby君は有名な日本人アーティストと一緒に何かやったら絶対バズるから!」とは言われましたね。 S:あー、わかるような気がします。ではこの記事を読んだ日本のアーティストさんから連絡が来ると良いですね(笑) R:もう30後半でもうプライドとかなんも無いですからね!ブレイキングダウンとか、ラップスターとか出てみたいですし。 https://youtu.be/2MhabTIZMEw?si=_wsngQ-fAaHklXIN 新アルバム『Self...

【HIPHOPCs独占インタビュー】KIRA-窪塚洋介が託した声、クラブからマカオ、そして『Omotenashi』制作秘話

大阪・アメリカ村のクラブカルチャーからキャリアをスタートさせ、マカオのカジノステージ、ヒップホップ、R&B、レゲエというジャンルの境界を軽やかに越えながら、"KIRA" 彼女は常に“歌で生きる”という選択を更新し続けてきた方です。 華やかな経歴の裏には、声帯結節や子宮内膜症といった身体的な試練、、そして「ありのまま」をさらけ出す覚悟があった。それでも彼女が音楽を手放さなかった理由は、音楽が、彼女自身を救ってきたから。卍LINE(窪塚洋介)との共演曲「TERRY JANE」、レゲエシーンに刻まれた名曲「FANTASY」、そしてなんと12月12日にリリースされた【KIRA & MICHVEL JVMESによる新EP『Omotenashi』】 KIRAが音楽に出会った原点から、プロとして生きる覚悟、仲間や恩師との“縁”、そして今なお進化し続ける現在地まで、そして新EP、飾らない言葉でについて語ってもらいました。 https://youtu.be/1cjjAw_jmLc?si=Y6cTUVtk2rc6Wg1u 音楽活動の原点と歩みについて Cook - よろしくお願いします!KIRAさんが音楽の道を志されたきっかけや、アーティストとしての原点についてお聞かせください。 KIRA - 物心ついた時からずっと大声で歌うのが日課で、中学から当時アメ村でDJをしていた兄の影響でブラックミュージックに興味を持つようになり、イベントに遊びに行ったりして。そのうちクラブやライブハウスで歌ったり、同世代のビートメイカー達と楽曲制作するようになりました。 初めてのレギュラーは木曜日のItoIで当時お世話になってた先輩が主催してたヒップホップのイベントで、そこで出会った仲間がバックDJとして一緒にライブしてくれたりイベント開いて歌わせてくれたり。わたしも先輩に教えてもらってSAM2でイベント主催したりもしてました。 Cook - 中学から!デビュー前にマカオのカジノで日本人初の歌手としてご活躍されたという異色のご経歴をお持ちですが、そのご経験が後の音楽活動にどんな影響を与えたのでしょうか? KIRA - マカオ行く前は学校みたいにクラブ行ったり出演してただけで、歌を職業にしたいとは思ってませんでした。けど向こうで初めて歌でご飯を食べることを経験して、その時、日本帰ったら次はカバーじゃなく自分が作った曲でご飯食べれるようになりたいと思ったのを覚えてます。 マカオでのショーは1日2時間×週6日、ステージで声が枯れて全く出なくなったり誰にも見向きもされない日もあったり。プレッシャーとホームシックでめちゃきつかったけど、それ以上に得たものが多くて。 当時マカオまで来てくれた新人発掘の仲村さんという方が、大好きなプロデューサー("TERRY JANE"や"I'm So Good"のKAZUHIKO MAEDAさん)と出会わせてくれたり、その時の流れが後のレゲエとの出会いにも繋がっていくので、経験としてもご縁としても自分がプロになっていく最大のきっかけやったと思います。 Cook - 凄い。プロとしての意識がそこで培われたんですね。 楽曲制作について https://youtu.be/kl0KxBvX354?si=tYgWfTM9a1XpCkUH https://www.instagram.com/p/BX0QUO6lrJg/?igsh=Y3Jqa2dxNjVlcW5t https://open.spotify.com/track/6VSAacedU3c01cjGdRAdel?si=utPSCYjnSEiNV6phlI-8UQ Cook - ファンの方から特にご要望の多かった、卍LINE(窪塚洋介)さんと共演された「TERRY JANE」についてお伺いしたいです。どのような経緯で制作されることになったのでしょうか。また、制作過程での印象的なエピソードや、楽曲に込められた想いを是非! KIRA - デビューしてもずっと大阪在住で活動してて、ある時420RECORDZ...

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2026年1月第4週|今週のヒップホップニュース総まとめ – Zeebraの問いかけ「ヒップホップとは何か?」

対象期間:2026年1月24日〜1月30日 via @zeebra_the_daddy /@__rykey__923 instagram 2026年1月第4週、日本のヒップホップシーンは「定義」をめぐる根源的な問いに直面した。ZeebraがNumber_iのチャート独占に言及し、「ヒップホップと名乗る覚悟」を問うた。同時に、RYKEYDADDYDIRTYが1年4ヶ月の懲役刑で収監され、「リアルであること」の代償を身をもって示した。 一方で、TOKONA-Xのドキュメンタリー世界配信とCreepy Nutsの北米ツアー発表は、日本のヒップホップが「国内サブカルチャー」から「世界で通用するコンテンツ」へ移行しつつあることを示す。 海外でも、謝罪と再定義、そして“語る権利”をめぐる争いが続いた。J. Coleは「Kendrickへの謝罪」を自分の言葉で回収し、Cardi Bは法廷での“印象操作”に釘を刺させ、50 Centは“人生の物語の権利”をめぐる争いが再燃した。  今週の出来事は、単なる個別のニュースではない。「誰がヒップホップを名乗れるのか」「リアルさとは何か」「日本のシーンは世界でどう語られるのか」──この3つが、国内外を貫いていた。 ⸻ 今週の結論 今週の中心は、Zeebraの発言によって「ヒップホップの定義」という議題が公に提示されたことにある。これはNumber_i個人への攻撃ではなく、チャート構造やジャンル区分という制度設計の問題として読むべきだ。 同時に、RYKEYDADDYDIRTYの収監は、「リアルであること」の美学が持つ両義性を可視化した。才能と破滅が隣り合わせのキャリアは、シーンに複雑な感情を残す。 そして、TOKONA-XドキュメンタリーとCreepy Nuts北米ツアーは、日本のヒップホップが「国内の文脈」から「国際的な語り」へ踏み出し始めたサインである。 ⸻ 〖0〗今週の地図(最初の10秒で掴む) トピック 何が起きた? 重要度Zeebra × Number_i論争 チャート独占に「覚悟」を問う発言。構造問題が浮上 ★★★★★RYKEYDADDYDIRTY収監 1年4ヶ月の懲役刑。「リアル」の代償が可視化 ★★★★★TOKONA-Xドキュメンタリー Amazon Prime Videoで世界配信開始 ★★★★☆Creepy Nuts北米ツアー “入口”を超え、北米へ本格進出...

2026年1月第3週|今週のヒップホップニュース総まとめ ─ J. Coleの引退

via @50Cent @21savage @realcoleworld 10年越しのアルバムが問う、ラッパーの「終わり方」 2026年1月第3週のヒップホップシーンは、未来への布石と過去の再評価が同時に進行する、複雑かつ豊かな様相を呈した。J. Coleが長年予告してきたアルバム『The Fall-Off』のリリース日を確定させ、ラッパーの「キャリアの終え方」という大きな問いを投げかけた。時を同じくして、伝説的デュオClipseがグラミー賞の舞台に立つことが決定し、15年越しの「物語の回収」が始まる。さらに、人気企画Verzuzの復活や、50 CentによるDMXのドキュメンタリーポッドキャストの発表は、プロデューサーや故人の功績をいかにして次世代に語り継ぐかという、シーン全体の課題を浮き彫りにした。 今週の出来事は、単なる個別のニュースではない。アーティストが自らの物語をいかにコントロールし、歴史をどう再定義し、そして次世代に何を残すのか。ヒップホップという文化が持つ、ダイナミックな自己言及性と進化のプロセスそのものが可視化された一週間だったと言えるだろう。 今週の結論 今週の中心は、J. Coleが『The Fall-Off』の発売日を確定させたことで「キャリアの終わらせ方」というテーマが一気に現実になった点にある。 同時に、Clipseが“いま”の評価軸でグラミー主要部門に食い込み、過去の遺産が「再証明」される局面が来た。 そしてVerzuzは、ラッパー中心の物語から「制作カタログの力」へ視点を戻し、プロデューサーの価値を表舞台に引き上げた。 〖0〗今週の地図(最初の10秒で掴む) トピック何が起きた?重要度J. Cole『The Fall-Off』が2/6リリース確定。"終わり方"が主題化した★★★★★Clipse × Pharrell2/1グラミーで15年ぶりの「再会」が公式舞台へ★★★★☆シーンの現在地ビーフ、DMXポッドキャスト、Carti裁判、Verzuz──4つの断面が同時進行★★★★☆ 今週の結論: 2026年のヒップホップが問うているのは「どう終わるか」と「どう語り継ぐか」。J. Coleは幕引きを、Clipseは中断の回収を、50 CentはDMXの物語を、Verzuzは裏方の価値を──それぞれの形で"完結と継承"を同時に走らせた週だった。 〖1〗重要ストーリー3本 ▶1:J. Cole『The Fall-Off』(2/6)──「引退」より先に、"終わり方"を作品にする J. Coleが『The Fall-Off』を2026年2月6日にリリースすると発表した。 タイトル自体が長年の伏線だっただけに、今回はただの新作告知じゃない。「物語が日付を持った週」だった。トレーラーは派手さを排し、セルフサービスの洗車場や静かなダイナーで日常を映す。ナレーションはこう問いかける。 Everything is supposed to...

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Rich Homie Quanの悲劇—911通報が明かす彼の最期

2024年9月5日、ヒップホップ界に激震が走りました。アトランタ出身のラッパー、Rich Homie Quanが34歳という若さで突然の死を迎え、その悲劇的な詳細が911通報によって明らかになりました。彼のガールフレンドであるAmber Williamsが自宅で彼を発見し、すぐに救急隊に連絡を取ったものの、Quanはすでに心肺停止の状態であり、救命処置の甲斐なく、彼の死が確定されました。 伝説的ラッパーの軌跡と突然の死 Rich Homie Quanは2010年代初頭、アトランタの音楽シーンで瞬く間にスターとなりました。「Type of Way」や「Flex (Ooh, Ooh, Ooh)」などのヒット曲は、彼の名を一躍世に知らしめ、彼の独特のフロウとリリックは多くのファンを魅了しました。また、Young ThugやBirdmanとのコラボレーションで結成されたRich Gangでは、「Lifestyle」というアンセム的な楽曲をリリースし、さらなる名声を得ました。その勢いで、彼は一時期ヒップホップ界の最前線に立ち続けました。しかし、今回の突然の死により、その輝かしいキャリアに悲劇的な終止符が打たれることとなりました。 911通報が明かすその最期の瞬間 TMZが入手した911通報の録音によれば、Williamsは朝方、Rich Homie Quanをソファで発見しました。彼が息をしていないことに気づいた彼女は、直ちに救急隊を呼び、助けを求めました。WilliamsはQuanをソファに寝かせた後、ブランケットをかけて休ませていましたが、再び彼の様子を確認した際には、彼はすでに息を引き取っていたと報告されています。心停止状態で発見されたQuanは、口元に泡を吹いており、彼女はすぐに心肺蘇生を試みましたが、すでに手遅れだったようです。この録音が公開されたことで、多くのファンは彼の最期の瞬間に衝撃を受け、悲しみに暮れています。 関連記事 2024年9月第4週:絶対に聴くべきHIPHOP新曲TOP 7 — シーンを揺るがす最新トラック! Rich Homie Quanの長年のパートナー、追悼メッセージを投稿 ラッパーのRalo、Rich Homie Quanの葬儀での行動が炎上 彼の死因に関する憶測とファンへの影響 現在、Rich Homie Quanの死因は公式には明らかにされていません。しかし、ラッパーのBoosie...

トラヴィス・スコット:革新的な音楽とビジュアルアートで世界を魅了する

トラビス・スコット(本名:ジャック・バーリス・ウェブスター)は、現代のヒップホップシーンにおいて不可欠なアーティストです。彼の独創的なサウンドと圧倒的なビジュアルパフォーマンスは、世界中のリスナーに影響を与えています。しかし、彼のキャリアは輝かしい成功だけでなく、いくつかの論争や悲劇も伴っています。この記事では、トラビス・スコットの代表作「Goosebumps」や最新アルバム『UTOPIA』の成功、そしてアストロワールドフェスティバルでの悲劇について探っていきます。 トラビス・スコットの音楽キャリアと代表作 トラビス・スコットの音楽キャリアは、2012年のデビューアルバム『Owl Pharaoh』から始まりました。彼のサウンドは、ヒップホップにエレクトロニックやトラップの要素を巧みに融合させたもので、その独自性が彼の人気を確立させました。2016年にリリースされた「Goosebumps」は、ケンドリック・ラマーとのコラボレーションによって世界的にヒットし、彼の名前をさらに広めました。 そして、2023年にリリースされたアルバム『UTOPIA』は、彼の音楽キャリアにおける新たな章を開きました。このアルバムは、トラビスが音楽的に進化し続ける姿勢を示すものであり、リリース直後から大きな話題を呼びました。『UTOPIA』では、サイケデリックなサウンドと深いリリックが特徴であり、トラビスがリスナーに提示する「理想郷」のビジョンが色濃く反映されています。 「Goosebumps」と『UTOPIA』の比較と文化的影響 「Goosebumps」は、トラビス・スコットの代表曲の一つであり、その特徴的なビートとダークなリリックが多くのファンに愛されています。この楽曲は、クラブやフェスティバルでの盛り上がりを生む定番曲となり、トラビスのライブパフォーマンスでも必ずと言っていいほど披露される曲です。海外メディアでも、「Goosebumps」はトラビスの音楽的才能を象徴する楽曲として高く評価されています。 一方、『UTOPIA』は、トラビスが新たな音楽的探求を続けるアルバムです。このアルバムは、これまでの作品とは異なるサウンドを展開しており、トラビスが次なるステージに進んだことを示しています。特に、アルバム全体を通して展開される「理想郷」のテーマは、彼の音楽に対するビジョンの広がりを感じさせるもので、ファンや批評家からも高い評価を得ています。 「Goosebumps」と『UTOPIA』の比較から見えるのは、トラビス・スコットの音楽的進化です。彼は単なるヒップホップアーティストに留まらず、音楽そのものの枠を超えたクリエイティブな表現者としての地位を確立しています。 「Goosebumps」の和訳動画をご紹介 https://youtu.be/mRMe6Er-jME?feature=shared アストロワールドフェスティバルでの悲劇 2021年11月、トラビス・スコットが主催したアストロワールドフェスティバルでの悲劇は、彼のキャリアにおいて避けて通れない事件です。このフェスティバルでは、観客がステージ前に殺到し、最終的に10人の死者と多数の負傷者が発生しました。この事件は、世界中で大きな波紋を呼び、トラビスに対する批判が巻き起こりました。 多くのメディアが報じたように、この事件は単なるアクシデントではなく、ライブイベントにおける安全管理の問題や、アーティストとしてのトラビス・スコットの責任が問われる形となりました。特に、彼がステージ上で観客の混乱を認識していたかどうか、またその後の対応が適切だったかについては、現在も議論が続いています。 この事件は、2023年にリリースされた『UTOPIA』にも影響を与えたと考えられます。トラビスはこのアルバムを通じて、事件後の内省や新たな方向性を模索しているように見えます。『UTOPIA』のテーマである「理想郷」は、もしかすると彼が目指すべき新たな音楽的、あるいは個人的なゴールを象徴しているのかもしれません。 トラビス・スコットの今後の展望 アストロワールドフェスティバルでの悲劇を乗り越え、トラビス・スコットは音楽活動を再開し、『UTOPIA』のリリースを成功させました。しかし、この事件は彼のキャリアに深い影を落とし続けています。今後、トラビスがどのようにしてこの困難を乗り越え、再びファンの信頼を取り戻すかが大きな課題となるでしょう。 音楽業界における彼の再起は、『UTOPIA』の成功が示すように、まだまだ可能性に満ちています。彼は今後も新たなプロジェクトを通じて、音楽シーンに大きな影響を与え続けるでしょう。 結論 トラビス・スコットは、音楽業界における革新者であり、彼の作品は多くの人々に影響を与えています。「Goosebumps」と『UTOPIA』は、それぞれ異なる時期における彼の音楽的な到達点を示しており、彼の進化を如実に表しています。一方で、アストロワールドフェスティバルでの悲劇は、彼のキャリアにとって大きな試練となりました。今後、トラビスがどのようにして活動を進めるのかにも注目ですね

ケンドリック・ラマー:音楽を超えた思想家の軌跡

"This image is a still from Kendrick Lamar's official music video 'HUMBLE.' (2017), directed by Dave Meyers & the little homies, produced by Anthony 'Top Dawg' Tiffith and TDE Films, with all rights reserved to the original creators and record label."

コラム

Lil Wayneがグラミーに選ばれなかった理由──『Tha Carter VI』

via @Lil Wayne instagram 2026年のGrammy Awardsが終わった。 その夜、Lil Wayneは短く一言だけ言った。「Congrats to the nominees and winners. Wasn't included. As usual.」 祝福と自嘲が同じ一文に同居する。たった12語で自分の立ち位置を正確に言い当ててしまうあたりが、やはりこの男はリリシストなのだと思い知らされる。そしてこの言葉のトーンこそが、2026年のグラミーとヒップホップの関係——いや、もっと広く「賞と開拓者の関係」そのものを映し出している。 まず、その夜何が起きたかを整理する Kendrick Lamarが主要部門を席巻した。Best Rap Albumは『GNX』、Best Rap Songは「tv off」、Best Melodic Rap Performanceは「luther」。さらに「luther」はRecord...

【速報】2026年グラミー賞が証明したもの。Kendrick Lamar「27冠」と37年間の闘争史

via @kendricklamar @feliciathegoat instagram 1989年のボイコットから2026年の戴冠へ、ヒップホップとグラミーの複雑な関係を読み解く 最終更新:2026年2月3日 16:00| Ito Kotaro 1989年のボイコットから2026年の戴冠へ、ヒップホップとグラミーの複雑な関係を読み解く 序章:「いつも通りのヒップホップ」という宣言の重み 2026年2月1日、ロサンゼルスのCrypto.comアリーナ。第68回グラミー賞授賞式のステージで、Kendrick Lamarは静かに、しかし確信に満ちた声でこう語った。 「ヒップホップは常にここにいる。俺たちはスーツを着て、カッコよく決めて、仲間と一緒に、カルチャーと共に立っている」 この瞬間、38歳のコンプトン出身のラッパーは、Jay-Zの25勝を超え、グラミー史上最多受賞ラッパーとなった。通算27勝。彼はこの歴史的快挙を「hip hop as usual(いつも通りのヒップホップ)」と表現した。 この言葉には二重の意味が込められている。一つは、ヒップホップがグラミーで成功を収めることが「当然」であるべきだという主張。もう一つは、37年にわたる闘争の末に勝ち取った「日常」への到達宣言である。 本稿では、2026年の結果を起点に、ヒップホップとグラミー賞の複雑な歴史を振り返りながら、この「転換点」が何を意味するのかを多角的に考察する。 第1部:2026年グラミー賞——「支配」の夜 Kendrick Lamar:4冠達成と歴史的記録 第68回グラミー賞で、Kendrick LamarはBest Rap Album(『GNX』)、Best Rap Song("tv off" feat. Lefty Gunplay)、Best Melodic Rap Performance("Luther"...

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