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【HIPHOPCs独占インタビュー前編】北海道からNYへ:巨匠dj hondaが切り開いたヒップホップ〜Mos Defとの制作秘話〜

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少年時代とロックからの出発

dj hondaは、日本と米国で作品を作り続けてきたDJ・プロデューサーである。公式プロフィールには、1992年の渡米、アルバム『h』『h II』、Mos Defらとの制作が記されている。この取材の前編では、ロックに熱中した少年時代からDJへ進んだ経緯と、米国のアーティストたちとの出会いを本人に聞く。

完成した作品の前には、どんな出会いや選択があったのか。以下の質問と回答は、掲載済みの本人との対話である。地の文では、公式資料と本人の回想を分けて紹介する。

逆境を超え、ロック少年→ターンテーブリストへ

本人は、少年時代はギターとロックに夢中だったと振り返る。上京後、ギターを続ける資金を稼ぐために見つけた住み込みの仕事がディスコで、そこでDJと出会ったという。

Sei:少年時代は、どんな子どもだったのでしょうか?

dj honda: 9歳の頃にギターを手にして、12歳には本気で弾き始めた。中学ではバンドを組んでライブにも出て、当時は完全にロック一筋。音楽がすべてだった。

Sei:幼少期、または上京した際の小話エピソードがあれば。

dj honda :11歳で耳を悪くして、左耳の手術を13回受け、鼓膜を除去したこと。17歳で東京に出た時は、金も伝手もなく、ゼロからのスタートだった。

Sei :ロック少年からヒップホップDJになった経緯は?

dj honda:音楽をやるために東京に出たけど半年くらいで行き詰まって、住み込みの仕事を見つけた。その行き先がディスコだった。ギターを続ける資金を稼ぐつもりが、そこでDJと出会ったのが転機になった。

Sei:音楽的な世代間の溝(マンブルラップやトラップ)をどう見ますか?

dj honda:音楽は音楽でしかない。マンブルだろうがトラップだろうが、オールドもニューも関係ない。結局は良いか悪いか、それだけ。

Sei:10〜20代前半へのアドバイスは?

dj honda:遊びでも仕事でも本気でやってみること。中途半端にやったことは残らない。若い時はとにかく、“やらない理由”を探さないこと。結局、経験したことが全部武器になる。

Sei:他に何か若者へメッセージ、アドバイス等があれば。

dj honda:夢は簡単に叶わない。でも諦めず追い続ければ、必ず形になる。若いうちの挑戦も失敗も、全部が力になって未来を作る。

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東京でのDJ活動とNYへの挑戦

公式プロフィールによると、17歳で上京し、18歳からDJを始めた。1980年代半ばからクラブやイベントで経験を積み、1992年のDJ Battle For World Supremacyでは準優勝している。

公式略歴は1992年のニューヨークへの渡航を活動の節目としている。一方、この取材で本人は、1990年のバトルへの挑戦と、1992年のバトル後にロサンゼルスで暮らし始めてから拠点を移した流れを語った。渡米までの経緯は、本人の回想として以下に掲載する。

Sei:1992年 Battle for World Supremacy のために西海岸に住んだと聞きますが?

dj honda:最初に挑戦したのは1990年。1回戦で負けて日本に戻った。本格的に住み始めたのは92年のバトル後。ロサンゼルスに渡って、そこから拠点を移した。

『h』でのメジャーデビューと共演者

公式プロフィールによると、1995年にアルバム『h』でメジャーデビューし、1997年には『h II』を発表した。公式略歴にはFat Joe、Redman、Common、The Beatnutsなど、多くの共演者が挙げられている。

自身の歩みを振り返る曲「Respect Line」には、活動を共にしたアーティストたちの名前が登場する。配信元が掲載する「Respect Line」の英語歌詞と制作クレジットで、その言葉を確かめられる。

『h』から『hⅡ』へ、ブランド展開

1997年『hⅡ』をリリース。Mos Def、Guru (Gang Starr) など伝説的ラッパーと共演。

音楽以外にも、Tシャツやキャップを通してdj hondaの名前を知った人はいるだろう。その始まりについて、本人はこの取材で音楽のプロモーションの一環だったと説明している。

Sei:Mos Def『Traveling Man』、De La Soul『Trouble in the Water』制作秘話は?

dj honda:Mos Def は家に来てビートを選び、一緒にスタジオで仕上げた。サンプル元のジョン・デンバーが事故で亡くなっていたことをrecording中に知り、もしクリアランスが下りなければアルバム自体延期、リリース出来なくなる状況だった。そこで別バージョンを作り、結果的には両方リリース出来た。2バージョンtraveling manがあるのはそういう事。90年De La Soul は日本ライブで出会ったのがきっかけ。trouble in the water レコーディング後もスタジオに来たり、当時xm radioやってたからそれに出て貰ったり、残念なことにDoveが亡くなってしまったけどこの曲は一生の宝だよ。   

Sei:Jeru The Damaja『El Presidente』については?

dj honda:メジャーを辞めて初めてのインディーアルバム『h III』に収録する為に録った曲。俺のスタジオでラフ録り、アイデア固めて本録りはChung Kingスタジオで仕上げた。俺の代表曲の一つ。作品を軸にツアーやライブにも広がった。

Sei:アパレル展開の背景は?

dj honda:音楽を宣伝する為。プロモーションの一環としてTシャツやcapを作っただけ。ブランドをやろうと思ったわけではない。

Sei:DJにとってジャンルを超えた音楽を聴く重要性は?

dj honda:ジャンル無関係。いろんな音を聴けば自然と耳も広がる。いい音はいい音。それだけ。

レガシーと影響

この対話を通して見えるのは、楽曲に至るまでの人の行き来である。自宅でのビート選び、スタジオでの録音、日本でのライブをきっかけにした出会い。dj hondaは、その過程を自分の言葉で振り返った。

若い世代への回答では、挑戦と経験を重ねることの大切さも語った。後編では『h V』と紅桜との制作を聞く。米国での経験から、その後の作品づくりへと話を進めたい。

資料提供:dj honda production

dj honda公式サイト / dj honda公式オンラインショップ

instagram: @djhonda_official @djhondaoriginals

X: @djhonda

Threads: @djhonda_official

その他リンク: TuneCore Japan:dj hondaの作品を探す

2026年10月3日追記:人物プロフィールと話題別の案内を追加。公式資料と照合して地の文の年代表現を修正し、出典を確認できない発言形式の記述を整理した。歌詞の長い日本語表記は、公式の英語歌詞への案内に変更。公式サイトへのリンクも修正した。掲載済みの質問・回答は変更していない。