via @Kevin Gates instagram
イギリス出身の白人シンガーAdel。
そしてルイジアナ出身の黒人ラッパーKevin Gates。
相対する二人のスタイルだが、勝ったのはKevin Gatesだった。
感情が道徳を超える瞬間ではないだろうか。
その哲学が最も鮮明に刻まれた作品が、2016年のアルバム『Islah』だ。
Kevin Gatesとは何者か
1986年2月5日、ルイジアナ州生まれ。
母親はプエルトリコ系。父親はモロッコ系。
幼少期にニューオーリンズからバトンルージュへ移り住んだ。以後、この街が彼のすべてになる。
13歳で初逮捕。盗難車への同乗だった。
父親とは幼い頃に離れた。10代で再会したが、14歳のときに他界。彼の音楽に通底する「喪失」と「再生」の感覚は、この原体験から始まっている。
2008年、収監。31ヶ月。
この期間に刑務所の教育プログラムで心理学を学んだ。哲学書と自己啓発書を読み漁った。その日々が、後の独自スタイルの土台を作った。
バトンルージュという系譜
バトンルージュは南部ヒップホップの重要拠点だ。
Boosie Badazz。Webbie。
感情を剥き出しにするスタイルは、この街で生まれた。
2007年、Gatesは地元レーベルと契約。BoosieやWebbieと共にミックステープを制作した。
翌年の作品について、彼はこう語っている。
「多くの痛み、多くの実話が詰まっている」
2011年に出所。2013年の『The Luca Brasi Story』で転機が訪れた。
Pitchforkは「感情的な裸身と確かなリリシズムを注入した」と評した。
この成功でAtlantic Recordsと契約。ただし、自身のレーベルは手放さなかった。妻Drekaとの共同運営。インディペンデント精神の象徴だ。
日本のシーンとの共鳴
この構図は、日本のヒップホップにも重なる。
京都・向島団地で育ったANARCHY。
15歳でラップを始めた。18歳で日本で3例目となる「決闘罪」で逮捕。1年間の少年院生活を経て、音楽で這い上がった。
2008年の自伝『痛みの作文』にはこう記されている。
「後ろ髪引くようなハードな環境、涙の分だけハートは頑丈」
川崎のBAD HOPを率いたT-PablowとYZERRの双子は、14歳で一斉捜査により逮捕された。
彼らの地元は川崎市川崎区池上町。「日本で一番空気が悪い場所」とも呼ばれる京浜工業地帯だ。
Gatesも、ANARCHYも、BAD HOPも、共通点がある。
音楽が「逃げ場」ではなく「唯一の武器」だったこと。
『Islah』という名前
2012年11月30日、長女が誕生した。
名前はIslah。
アラビア語で「改善する」「より良くする」「精神的な覚醒」を意味する。
Gatesはインタビューでこう語った。
「娘が生まれる前、複雑な感情の中にいた。怖かった。興奮していた。娘が来たとき、彼女は私にそのすべてを与えてくれた」
2015年、妻Drekaと正式に結婚。同年、夫妻はイスラム教に改宗した。
デビュー・アルバムに娘の名前をつける。
愛情表現ではない。自身の変容の宣言だった。
2016年1月──歴史的な一週間
『Islah』のリリース日を理解するには、当時の状況を知る必要がある。
2015年11月、Adeleは3rdアルバム『25』をリリースした。
初週売上、338万枚。
史上初めて週間300万枚を突破したアルバムだった。
Adeleの存在は絶対的だった。One Direction、Justin Bieberはリリースを前倒し。Rihanna、Kanye Westは後ろ倒し。
誰もがAdeleとの直接対決を避けた。今で言えば、Taylor Swiftの最新作がチャートを支配し続けている状態だ。
そこにKevin Gatesが、インディペンデントのまま割って入った。
Adeleを上回った瞬間
2016年1月29日、『Islah』リリース。
同週、Rihannaも『ANTI』をリリースした。
結果は──
1位:Rihanna『ANTI』
2位:Kevin Gates『Islah』
3位:Adele『25』
史上最高の初週売上を記録したAdeleを、バトンルージュ出身のインディペンデント・ラッパーがチャート上で上回った。
DJBoothは見出しで叫んだ。
「Holy Sh*t」
二人の感情表現者
文化的背景はまったく違う。
イギリス出身の白人シンガー。ルイジアナ出身の黒人ラッパー。
しかし、共通点がある。
Adeleの『25』は失恋と後悔、時間の経過への郷愁を歌った。
Gatesの『Islah』はストリートでの生存、信仰との葛藤、父性への目覚めを描いた。
どちらも「感情の最も醜い瞬間」を音楽にした。
Adeleは失恋を美に変換した。
Gatesは生き延びるための痛みを、そのまま言葉にした。
矛盾を抱えたまま
Gatesの音楽には、常に二つの力が同時に存在する。
堕落と信仰。逃避と向上。暴力と祈り。
この矛盾こそが、『Islah』の感情的エンジンだ。
『Islah』は成長物語ではない。
感情は迷走し、揺れ、後退する。
それでも、嘘はない。
告白の系譜
Gatesの脆さは個人的なものではない。
南部ヒップホップの伝統だ。
Boosieの感情的告白。初期Eminemの赤裸々な語り。教会の説教と刑務所の独白が混ざったような語感。
「Told Me」では、依存症や自殺念慮が信仰と同じレイヤーで語られる。
整理されない。救済もされきらない。
それでも、本物だと伝わる。
ANARCHYの「Growth」も同じだ。貧困、離婚、暴走族時代、少年院──美化されることなく語られる。
BAD HOPのT-Pablowが歌う。
「川崎区で有名になりたきゃ、人殺すかラッパーになるかだ」
スローガンではない。彼らが見てきた現実の記述だ。
次世代へ
Gatesの遺伝子は、次世代に受け継がれた。
NBA YoungBoy。1999年生まれ、バトンルージュ出身。
父親は55年の刑で服役中。祖母に育てられたが幼くして他界。強盗で逮捕された少年院で歌詞を書き始めた。
2016年のミックステープ『38 Baby』にはGatesがフィーチャーされている。
Rod Wave。1998年生まれ、フロリダ州出身。
小学生の頃に両親が離婚。父親は投獄。貧困の中で少年院を出入りした。
デビューアルバム『Ghetto Gospel』のエグゼクティブ・プロデューサーはGates本人だ。
Rod Waveは影響源としてAdeleを挙げている。
「彼女の歌詞に込める感情に深い憧れがある」
YoungBoyは感情を内側に閉じ込める。Rod Waveは悲しみをロマンに変換する。
どちらも、矛盾を抱えたまま感情を差し出す。Gatesと同じ地平だ。
逃げなかった男
Gatesのキャリアは論争と切り離せない。
率直すぎる発言。擁護できない行動。
2015年8月、公演中に女性を蹴った事件。映像は瞬時に拡散され、彼は非難の中心に立たされた。
しかしGatesは沈黙しなかった。
「The Truth」で自身の視点と恐怖、そして信仰を語った。
正解かどうかは別として、彼は逃げなかった。
2016年、180日間の収監。2017年には銃器所持違反で30ヶ月の判決。
それでも獄中から楽曲制作は続いた。
妻Drekaがプロデュースした『By Any Means 2』はBillboard 200で4位。物理的な不在の中でも、存在感は消えなかった。
時間が証明したもの
『Islah』の真価は、時間と共に明らかになった。
2016年の年間Billboard 200で16位。Drake、Beyoncé、Rihannaと並んだ。
「2 Phones」はHot 100で17位、初のトップ40入り。「Really Really」は6×プラチナ。
2022年10月、『Islah』はトリプル・プラチナ認定を受けた。
累計300万ユニット以上。
インディペンデントのラッパーが、デビューアルバムで。
遺産
Gatesはその後も作品を発表し続けた。
2019年『I’m Him』。2022年『Khaza』(息子の名前)。2024年『The Ceremony』。
しかし『Islah』は特別な位置を占め続けている。
単なる商業的成功の記録ではない。
バトンルージュのストリートから始まり、収監を経て、インディペンデントのまま頂点に到達した男の、感情の記録だ。
整理されない矛盾。美化されない痛み。説明しきれない信仰。
それらすべてを抱えたまま、彼は娘の名前をアルバムに刻んだ。
ANARCHYが『痛みの作文』で生い立ちを綴り
BAD HOPが「MADE IN KAWASAKI」で川崎の現実を映像化したように、Gatesは『Islah』で自分自身を開示した。
それを聴いた人々は、自分自身の痛みを認識した。
感情に嘘をつかないことの価値を、『Islah』は証明した。
それは2016年のチャートで終わる話ではない。
今も続く物語の、重要な章だ。
ストリーミング時代に再発見された
TikTokが流行る前から、Kevin Gatesの音楽は「感情の即応性」を備えていた。
だからKai Cenat周辺のストリーマーたちが彼の楽曲を使い、「2 Phones」や「Really Really」は再び共有されていく。
これはバズではない。生活の中で使われる音楽だ。
ルイジアナ式インディペンデンスの完成形
率直に言えば、Kevin Gatesがここまで続いた理由は、本物のインディペンデントだったからだ。
No Limit、Cash Moneyが築いた「外に媚びず、内側から王国を作る」思想。『Islah』は、その完成形だった。
彼はラッパーではなく、一つの制度になった。ファンは入れ替わる。世代も変わる。だが消えない。
『Islah』は許されたアルバムではない
Kevin Gatesは最初から「道徳で評価される場所」にいなかった。
彼が立っていたのは、感情の真実だけが通貨になる場所だ。
『Islah』は、矛盾、信仰、暴力、弱さ、不完全な責任感を無理に整えず、同時に存在させた。だからAdeleの『25』と並んだ。だから異常ではなかった。
それは、南部的で、男性的で、妥協のない感情翻訳が時代に届いただけの話なのだ。
本稿の視座──「告白的音楽」の日米並行史
バトンルージュと京都・川崎。地理的には何の接点もない。しかし、Kevin GatesとANARCHY、BAD HOPの音楽には、同じ文法がある。「痛みを整理せず、矛盾を抱えたまま差し出す」という文法だ。Adeleが338万枚を売った週に、Gatesが11.2万枚でその上に立てた理由。Rod WaveがGatesとAdeleの両方を師と仰ぐ理由。それは「感情の実在性」が、ジャンルも国境も超えるからだ。本稿は、2016年1月29日のチャートを起点に、アメリカ南部と日本の都市部で並行して進化した「告白的ヒップホップ」の系譜を、一つの線で結ぶ試みである。
