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2026年1月第4週|今週のヒップホップニュース総まとめ – Zeebraの問いかけ「ヒップホップとは何か?」

対象期間:2026年1月24日〜1月30日 via @zeebra_the_daddy /@__rykey__923 instagram 2026年1月第4週、日本のヒップホップシーンは「定義」をめぐる根源的な問いに直面した。ZeebraがNumber_iのチャート独占に言及し、「ヒップホップと名乗る覚悟」を問うた。同時に、RYKEYDADDYDIRTYが1年4ヶ月の懲役刑で収監され、「リアルであること」の代償を身をもって示した。 一方で、TOKONA-Xのドキュメンタリー世界配信とCreepy Nutsの北米ツアー発表は、日本のヒップホップが「国内サブカルチャー」から「世界で通用するコンテンツ」へ移行しつつあることを示す。 海外でも、謝罪と再定義、そして“語る権利”をめぐる争いが続いた。J. Coleは「Kendrickへの謝罪」を自分の言葉で回収し、Cardi Bは法廷での“印象操作”に釘を刺させ、50 Centは“人生の物語の権利”をめぐる争いが再燃した。  今週の出来事は、単なる個別のニュースではない。「誰がヒップホップを名乗れるのか」「リアルさとは何か」「日本のシーンは世界でどう語られるのか」──この3つが、国内外を貫いていた。 ⸻ 今週の結論 今週の中心は、Zeebraの発言によって「ヒップホップの定義」という議題が公に提示されたことにある。これはNumber_i個人への攻撃ではなく、チャート構造やジャンル区分という制度設計の問題として読むべきだ。 同時に、RYKEYDADDYDIRTYの収監は、「リアルであること」の美学が持つ両義性を可視化した。才能と破滅が隣り合わせのキャリアは、シーンに複雑な感情を残す。 そして、TOKONA-XドキュメンタリーとCreepy...

【速報】J. Cole謎のフリースタイル|『The Fall-Off』発表前にシーンに爆弾

via @realcoleworld instagram J. Coleが暴いたビーフ依存ビジネスの正体 2026年1月28日、J. Coleのファンの間に奇妙な緊張感が走った。 配信プラットフォームEven.bizに、突如としてJ. Cole名義の未発表楽曲が出現したのである。SETI FREESTYLE、WINTER STORM FREESTYLE、GOLDEN...

Kanye Westが謝罪、彼は自己破壊を選んだのかもしれない

via @ye instagram はじめに 2026年1月、Kanye West(Ye)がアメリカの経済紙『Wall Street Journal』に全面広告を掲載しました。一見すると謝罪文なんですけど、読み進めていくと、それだけじゃないことに気づきます。 過去4年間の暴走、反ユダヤ的な発言、精神疾患との向き合い、そしてカルチャーへの裏切りなど。 Yeの声明を読み解きながら、なぜ彼の謝罪は単なる謝罪では終わらないのか、そしてヒップホップは精神疾患とどこまで向き合うべきなのかという問いについて考えてみたいと思います。ヒップホップがずっと触れてこなかった——というか、触れにくかった——ラッパーの精神疾患と影響力の怖さについて、Ye自身が正面から語っていました。 この記事では、Yeの言葉をきっかけに、ラッパーとメンタルヘルスの関係や、ヒップホップ文化が抱える矛盾について、少し考えてみたいと思います。日本のシーンにも通じる部分があるかもしれません。 Kanye Westという存在 Kanye Westって、単なるラッパーじゃないですよね。音楽はもちろん、ファッション、政治的な発言、宗教、SNSと、、ここ最近いろんな領域で暴れながらも、GOATとも呼ばれてきた人です。 でも今回、彼はこう言いました。 「私は正気を失っていた。自分が世界を正しく見ていると信じていた」 天才の告白というよりも、ヒップホップというシステムの中で起きた”副作用”の告白なんじゃないかなと思うんです。 ラッパーは壊れやすいのかも ヒップホップって、他の音楽ジャンルとちょっと違う構造を持っている気がします。 貧困や暴力的な環境、人種差別、社会からの排除——そういうものを背負った人たちが、ある日突然「世界的スター」になる。トラウマを抱えたまま、巨大な権力を手に入れるという状況が生まれやすいと思います。 精神医学的に見ても、これはかなり危険な状態だと言われています。 実は珍しくなかったラッパーたちのメンタル問題 実際、多くのラッパーが精神的な問題を抱えてきました。 Kid Cudiはうつ病や自殺願望を公に告白していますし、Kendrick...

なぜ2Pacは史上最高のラッパーと呼ばれているのか?レジェンドの人生大解説!【ベイエリア編】

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重要なポイント

  • 2Pacは1990年にDigital Undergroundのツアーで日本に来日した。
  • 彼はサンフランシスコに住みながら、タマルパイス高校に通っていた。
  • デジタル・アンダーグラウンドに参加し、1991年にデビューシングル『Same Song』をリリース。
  • 映画『Juice』でのパフォーマンスが彼の俳優としてのキャリアを開始させた。
  • 2023年にオークランドの通りが「トゥパック・シャクール・ウェイ」と改名された。

2Pac(2パック)は日本に来たことがある。記録に残っている限りでは、かの伝説的グループDigital Underground(デジタル・アンダーグラウンド)の1990年のツアーに、メンバーの一人として来日している。その時の日本語インタビュー動画も見つかったので、是非視聴して欲しい。

東海岸から西海岸へ

デジタル・アンダーグラウンド時代を語る前に、マリンシティ時代のことに触れておく。2パックはLAに来る前、西海岸のサンフランシスコからみて東西部に位置する、マリンシティとオークランドに住んでいた。彼は、ミル・バレーのタマルパイス高校に通っていた。同高校の元教師Barbara Owens(バーバラ・オーウェンズ)は、シャクールが自分の教室にいた短い期間についてこう回顧している。「彼が困難に直面していることは知っていた。けれど、マリンシティ出身で、白人が大半を占める学校に通うアフリカ系アメリカ人学生であるという以外に、具体的にどのような困難に直面しているかは分からなかった」という。

2001年に出版されたパックに関する著書『Holler If You Hear Me』の中で、Michael Eric Dyson(マイケル・エリック・ダイソン)は、母Afeni(アフェニ)のクラック中毒がマリンシティへの移住によってどのように悪化したかを描写し、彼女が「北カリフォルニアの黒人居住区にある悪名高い薬物流通拠点に危険なほど近い場所に」置かれたことを指摘している。ある時点で、母親との関係が悪化し、2パックは友人の住む廃アパートに移り住んだ。彼は食費を稼ぐためにクラックの売買も始めた。こうした大きな苦難にもかかわらず、シャクールの成績は一度も落ちなかったようだ。

上記のオーウェンズ氏は、パックにシェイクスピアの朗読を頼んだ時のことが、いつまでも心に残る思い出の一つだと語っている。「彼に『オセロ』の役を演じてほしいと頼んだの。生徒全員が朗読し、彼がその役を演じたわ。間違いなく、今まで聴いたシェイクスピア劇の中でも、ましてや『オセロ』の朗読の中でも、最も素晴らしいものの一つだった」

2パックはタマルパイス高校を中退し、オークランドへ引っ越した。1989年、彼はLeila Steinberg(レイラ・スタインバーグ)が教える詩(ポエトリー)のクラスに通い、彼女が後に彼のメンターとなった。彼女はヒップホップのコンサートプロモーター業も担っており、その彼女が人気急上昇中のヒップホップグループ、デジタル・アンダーグラウンドのマネージャーAtron Gregory(アトロン・グレゴリー)に2パックのラップのデモテープを送ったのだ。スタインバーグとグレゴリーは、高校時代の同級生で既知の間柄であった。パックとグレゴリーはその後も精力的に仕事をするようになり、グレゴリーはマネージャー兼エグゼクティブ・プロデューサーとしてパックがスターダムにのし上がる過程で活躍した。

レジェンドの功績を称えるが如く、2023年にオークランドのヴァン・ビューレン・アベニューとグランド・アベニューの間に位置するマッカーサー・ブールバードが、「トゥパック・シャクール・ウェイ」と改名された。彼はオークランド時代、マッカーサー・ブルバード275番地のアパートに住んでいた。「俺はオークランドにすべての愛を捧げるぜ。もしどこかをクレーム(主張)するなら、オークランドだな」と彼はかつて語っていた通り、パックはオークランドの住民から愛され、彼もこの地域を愛していたようだ。

Digital Underground時代

2017年のローリングストーン誌のインタビューで、グレゴリー氏とデジタル・アンダーグラウンドのメンバーだった故Shock G(ショック・G)はその時のことをこう語っている。「確か1990年代の『Sex Packets』の曲をミックスしていた。俺はミキシングボードの前にいて、奴が俺の目の前に立っていたんだ。「今すぐやれってか?」って。まるで映画『Scarface』の「ドラッグ取引、やるのかやらねーのか、この野郎」って感じの緊迫感があってさ。エンジニアが引き継いで、俺らはピアノルームへ行った。するとパックがそこに立って、俺のためにいくつかライムを披露してくれた。俺の目を見つめながら、少し体を動かした。パックの滑舌に感銘を受けたね。奴の言っていることが聞き取れたからだ。Chuck D(チャック・D)やKRS-One(ケーアールエス・ワン)、LLみたいな言葉の明瞭さがあった。だが、[Too] $hort(トゥー・ショート)やE-40みてーな、オークランド特有の『カーリーフライ』みたいなもっさりした抑揚はなかった。その時点では、奴は本当に馬鹿げたヒップホップネタについて話していたな。その曲の一つに『The Case of the Misplaced Mic(マイク紛失事件)』っつーのがあった。奴はそんな感じのものを披露した後、もっと政治的な内容のものを披露してくれた。俺はアトロン(グレゴリー)に「あいつは本物だ、本物だ」と声をかけたよ」

だがデジタル・アンダーグラウンドと繋がった後、すぐに2パックがブレイクしたわけでは無い。上記のグレゴリー氏曰く、「『Trapped』と他の曲が入った[2Pac]のデモがあったんだ。それを売り込んだんだ。Digital Undergroundは人気だった。この業界では、グループが人気だとマネージャーやプロダクション会社からのオファーを受けない人はいない。だから、文字通りほぼ全員にデモを見せたんだけど、誰も彼と契約してくれなかった。どんな反応だったかって? 一つは「アイス・キューブみたいだ」ってことだった(笑)」と回想している。

レコード会社への売り込みに1年かかり、待たされることに疲れたパックは、音楽業界に見切りをつけ、アトランタの大学でニュー・アフリカン・パンサーズの議長の職に就こうとした。この時、ショック・Gは彼を引き留めるため、敬意を払いつつもローディー(機材運び)として一緒にツアーに回ることを打診した。2パックはすぐにそれを受け入れ、その日から常にグループと行動を共にするようになったという。

ショック・Gは、これまでのどのローディーよりも2パックが優れていたと強調していた。他のローディーが女性やパーティー、ドラッグなどで持ち場を離れてしまう中、2パックだけは決して職務を怠らなかった。「彼の監視下では何も無くならなかったよ」と述べ、彼の信頼性と責任感の強さを高く評価していた。
現存メンバーの一人、Chopmaster J(チョップマスター・J)も、デジタル・アンダーグラウンドのライブを「ヴォードヴィル(寄席)のようなバラエティショー」と表現し、パックがその中で裏方として献身的に働いていた様子を回想している。彼は、ポップコーンや紙吹雪でバケツを満たしたり、シャンパンボトルの栓を抜いたりといった雑用を厭わずこなしたそうだ。Jはそれを映画『ベスト・キッド』の「ワックスがけ」の修行になぞらえ、「奴は自分の目標を達成するために必要なことを何でもする人間だった」強調した。パックは決してダンサーではなかったものの、「サーカス(業界)に参加」し、スターになるために必要な裏方の仕事を全てこなした。その結果、あいつは「ローディーからムービースターへと、1年足らずで駆け上がった」と述べている。

2パックの性格の一部を表すエピソードも、Money B(マネー・B)は披露している。「奴はマジでだらしなくて、散らかし放題だった。自分の後片付けもしない。マリファナたばこを片付けて、吸ったタバコはテーブルにそのまま置いていく。服はどこにでも置きっぱなしで、タオルも片付けない。自分の後片付けもしない。2パックは何も持たずに育ち、あちこち転々とし、不安定な状況だったから、自分のものと呼べるもの、自分で管理すべきものを持っていなかったんだと思う。やっと自分のアパートを持ったら、責任感が芽生えて掃除を始めるんじゃないかと思ったけど、結局そうはならなかった。それが奴の性格だったから」Bは続ける。「奴にとっては、後片付けよりももっと大切なことがあったんじゃないかな。あいつはまるで疲れを知らない労働者みてーだった。自分がやりたいことだけに集中していて、他のことはなーんも重要じゃなかったんだ」

その当時のことを、故Shock G(ショック・G)も生前、こう語っていた。「2パックの最初のアパートでは、シンクに積み上げられた汚れた皿は冷蔵庫に寄りかかるほど高く積み上げられたし、反対側の大きな屋外用ゴミ箱からはピザの箱やテイクアウトの容器が山積みになって、同じように高く積み上げられていたさ。時には、その上に散らばったシリアルの箱、雑誌、スナック菓子のバスケット、書類とか、ゴミが積み重なり、まるで虹のようなゴミの山になることもあったよ。本当にそうだった。Man Man(マンマン)やMopreme(モプリーム)、特にMouse(マウス)やSaafir(サフィール)に聞いてみてくれ。奴らは二人とも、それぞれ別の時期に2パックと同居していたんだ。歴史上、真に多作な天才たちのように、2パックの奇行も際立っていたよ」

2パックのレコーディングデビューは1991年にリリースされた、デジタル・アンダーグラウンドのパーティーシングル『Same Song』である。同年後半、2パックはインタースコープ・レコードからデビューソロアルバム『2Pacalypse Now』をリリースし、これは後にゴールドディスクとなった。

『Juice』のBishop役:「10年後には俺はもう生きていないだろう」

1992年にリリースされた映画で、2パックの猟奇的な名演技が光っていた『Juice』。かのJuice World(ジュース・ワールド)もこの映画から名前を拝借していたし、時を超えても愛され続けている、カルト的名作の一つである。

アカデミー・オリジナルズとのインタビューで、脚本・監督のErnest Dickerson(アーネスト・ディッカーソン)は、2パックがキャストに加わった経緯を語った。実は、彼はオーディションを受けるつもりなどさらさら無かったという。実は、映画のオーディションを受けた友人のNaughty by Nature(ノーティー・バイ・ネイチャー)のTreach(トリーチ)を精神的に支えるためだけに、オーディションに参加しただけだった。他の記事では、トリーチのみならず、マネー・Bもこのオーディションに参加したと記載があった。若く無名の才能を探していたディッカーソンは、2パックに主人公のQ役のオーディションを受けないかと誘った。最終的にQ役は俳優Omar Epps(オマー・エップス)に渡ったものの、役の中でラッパーでもあるビショップを探していたディッカーソンらキャスティング担当者は、2パックにも声をかけてみた。台本を全て覚えていたパックは、5ページにも及ぶビショップのパートも暗記していた。彼がオーディションでビショップを演じた時、彼らは確信したという。もちろんこの時点で、彼らはパックがボルティモア芸術学校に通っていたことは知らなかった。パックは脚本を完璧に演じきっただけでなく、偏執的でサディスティックなビショップを演じきったのだ。

同映画のプロデューサーを務めたNeal Morlitz(ニール・モーリッツ)が当時のパックとの会話をこう回想していた。「10年後には、君はスターになっているだろう」と若いアクターに言ったという。モーリッツは、ハリウッドの次なる超越的な俳優の誕生を目の当たりにしたと信じていた。だが、パックその時の返答を予想することはできなかったという。「10年後には」とパックは淡々と言った。「俺はもう生きていないだろう」

当時、デジタル・アンダーグラウンドのバックコーラス兼ローディーとして活躍していたパックだが、1992年1月公開したこの映画のブレークを機に、1993年オークランドからLAに引っ越し、同時にデジタル・アンダーグラウンドからも離れソロ活動を開始する。『Juice』の成功後、彼はJanet Jackson(ジャネット・ジャクソン)の相手役を務めた恋愛映画『Poetic Justice』(1993年)に出演する。その後、『Above The Rim』(1994年)、『Bullet』(1996年)、『Gridrock’d』(1997年)に出演し、最後の映画『Gang Related』(1997年)まで、ラッパー業と並行して精力的に俳優業もこなしていった。【続く】

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