日曜日, 11月 30, 2025

なぜ2Pacは史上最高のラッパーと呼ばれているのか?レジェンドの人生大解説!【出生~高校編】

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25歳の時、貴方は何をしていたか覚えているだろうか?もしくは今現在、まだ10代、20代前半の読者は、25歳までに何かを成し遂げたいと思っているだろうか?

先に述べると、Tupac Amaru Shakur(トゥパック・アマル・シャクール)こと2Pac(2パック)の偉業は、半端ない。1996年9月13日に亡くなるまでの間、713曲を収録し、1991年~1996年の間に7本の映画に出演し、74Million(7500万枚)ものレコードを売り上げ、且つ9つもプラチナムアルバムをリリースしていた。そして、亡くなった後も、7アルバム出せる量の曲を用意していたという。

それだけではない。以前記事でもお伝えしたが、女性関係も型破りだ。米国音楽業界の大重鎮だったQuincy Jones(クインシー・ジョーンズ)の美しい愛娘と長期交際していたことは有名だが、Will Smith(ウィル・スミス)の妻で女優のJada Pinket(ジェイダ・ピンケット)とはウィルが嫉妬していたほど大親友の仲だったし、もう生きた化石のような伝説Madonna(マドンナ)とも全盛期付き合っていた。これを全て、25歳でやり遂げたのだ。

もう上記の偉業だけで、史上最高ラッパー認定ものである。ここでこのコラム記事を終了しても良いくらいなのだが(笑)、一応他のことにも触れようと思う。長くなりそうなので、幾つかのシリーズとして記事を出す予定なので、お付き合い願いたい。

ブラックパンサー党と出生について

2パックについて語るにあたって外せないのが、彼の家庭とブラックパンサー党とのつながりだ。彼は党員の息子だった。母親のAfeni Shakur(アフェニ・シャクール)や義父のMutulu Shakur(ムトゥル・シャクール)は党員であったし、育った環境下ではオークランドで設立された黒人民族主義団体ブラックパンサー党の理念を掲げた、運動のリーダーたちに囲まれていた。2パックの母アフェニは、1968年、ブラックパンサー党の有力な共同創設者の一人であるBobby Seale(ボビー・シール)の演説を聞き、ハーレム支部に入党したという。ブラックパンサー党は、黒人コミュニティを警察の暴力から守ることに尽力し、国民皆保険、教育、住宅の実現に尽力していた。最盛期には、全米各地の支部に2,000人以上の党員を擁し、無料の学校朝食プログラムの実施、鎌状赤血球貧血検査の実施、成人教育の提供などを行っていた。1969年の連邦捜査で、アフェニ・シャクールと他の20人のブラックパンサー党員は、ニューヨークの警察署やその他の公共施設を爆破する共謀の容疑で逮捕された。その時彼女は2パックを妊娠し、妊娠期間の一部を刑務所で過ごした。その後、全国的な注目を集めた法廷闘争において、彼女は自ら弁護することを主張し、1971年5月アフェニと12人の仲間はすべての罪で、無罪判決を受けた。妊娠8ヶ月で釈放され、そしてそのわずか1か月後、彼女は2パックを出産した。

「2パックは、運動の担い手であり、運動の長老たちに囲まれて生まれ育ちました」と、『アメリカの家族:シャクール家と彼らが創った国家』の著者、Santi Elijah Holley(サンティ・イライジャ・ホリー)は語る。「彼はブラックパンサー党員や元過激派、黒人解放活動家たちに囲まれて育ち、まるで寝る前に物語を聞くように、自分たちの物語を聞かせられました。特に母親のアフェニは、常に彼に黒人の誇り、自己決定、黒人の回復力、そして抵抗の精神を植え付けました」ホリーは、彼のリリックスにはその思想が色濃く反映していると強調している。

Dear Mama:アフェニ・シャクール

みんな大好き、名曲中の名曲『Dear Mama』だが、母親とパックの関係は複雑だったらしい。

2パックの母アフェニだが、1947年1月10日ノース・キャロライナでの出生時の名はAlice Fay Williams(アリス・フェイ・ウイリアムズ)と言い、彼女が9歳の時、母と姉妹と共にNYへ引っ越したそうだ。1964年にブラックパンサーに入党した後、彼女は党員のLumumba Shakur(ルマンバ・シャクール)という男性と出会い、結婚する。そこで名前をアリスからアフェニ・シャクールに変えたのだ。彼女はルマンバと結婚していた時(そして上記の爆破事件の頃)、マンハッタンの友人のアパートで2パックの実父であるBilly Garland(ビリー・ガーランド)と出会った。保釈中の1970年、アフェニとガーランドは短期間の情事に及び、それがきっかけでアフェニはパックを妊娠したという。1年後、皆の知っている、あの名前に改名するものの、彼女は1971年6月16日の出産時、息子をParish Lesane Crooks(パリッシュ・レサン・クルックス)と名付けた。ルマンバとは息子の出産後、離婚に至ったという。

ちなみにパックはこの実父とは1994年に撃たれるまで、20年近く会っていなかったそうだ。そして、この父親は1996年にトゥパックが亡くなった後、彼の財産の半分を相続しようとして、アフェニを訴えている。ガーランドが長年にわたり息子の養育や介護に果たした貢献は「ごくわずか」であったため、もちろん判事はガーランドが亡くなった息子からは、何も相続できないとの判決を下している。

1975年、2パックが4歳の頃、アフェニはムトゥル・シャクールと結婚した。ムトゥル氏はブロンクスにあるコミュニティ・デトックス・センター「リンカーン・デトックス」で政治教育クラスを教え、鍼灸の博士号を取得していたそうだ。彼らは7年後の1982年に離婚をするものの、パックはムトゥル氏を生涯にわたって父親代わりとして慕っていたという。ちなみにパックは1980年代、母親のクラック中毒をめぐって対立し、1991年に彼女が薬物から抜け出すと和解した。

2010年に米国議会図書館の国立録音登録簿にも選出された『Dear Mama』だが、このヒット曲は、貧困の中で育ったアフェニとトゥパックの生い立ち、そしてアフェニの薬物中毒との闘いを、自伝的に歌っている。「母の代わりを務めることのできる女性はこの世にいない」と歌詞にあるように、母親と彼女のn精神を称賛し、深い愛を示している。

NYからボルティモアへ

90年代に勃発した東西合戦の影響で、西海岸出身と勘違いされることが多いが、2パックは人生の半分以上を東海岸で過ごしている。彼は、1984年13歳の時、ニューヨーク市からメリーランド州ボルティモアに移住した。彼と母親、異父妹のSekiywa(セクイワ)は、北ボルチモアの小さな地区ペン・ルーシーにあるグリーンマウント・アベニュー3955番地のレンガ造りの長屋の1階のアパートに引っ越した。

彼はローランドパーク中学校、9年生の時はポールローレンスダンバー高校に通い、この時期に執筆と詩に夢中になり、アーティストとして芽を咲かせた。当時一緒にラップや音楽を作成していた友人のDana Smith(デイナ・スミス)曰く、パックは運動音痴だったため、スポーツには興味を示さなかったそうだ。だがその時代すでに、彼のライミング力とラップのセンスはピカ一だったという。自身の演技力を磨きたいと考えたパックは、10年生の時にボルティモア芸術学校に転校し、演劇を専攻した。この学校は演技のオーディションで合格しないと入学出来ない、敷居の高い学校である。そこで、上記ウィル・スミスの妻で女優のジェイダ・ピンケットと出会う。

俳優トゥパック・シャクールの原点

ラッパーが俳優業との二足の草鞋を履いていることは昨今決して珍しくはない。だが2パックがもしまだ生きていたら、今頃はオスカー俳優と言われるほど、演劇界でも地位と名声を築いていたのではないかと筆者は推測する。そのぐらい、演技力があったのだ。

ボルティモア芸術学校の演劇部長を長年務めていたDonald Hicken(ドナルド・ヒッケン)はパックのオーディションを追想して、こう述べていた。「とても素晴らしかったです。最初に気づいたのは、彼のカリスマ性の高さでした。最初から、私たちは皆、彼が本物だと感じていました」

演劇部の同級生で、現在はハリウッドを代表する大物女優となったジェイダ・ピンケットも著書『Tupac Remembered』こう回顧している。「2パックはいつも熱心で、とてつもなく情熱的だったわ。彼はシェイクスピアを愛していた。…演技は彼の精神の一部だった。本当に愛していたのよ」

そのジェイダ・ピンケットだが、近年2パックを「ソウルメイト」とも呼んで話題となっていた。「もし前世なんてものがあるなら、私とパックは間違いなく何度か一緒に旅をしたことがあると思うわ」だが、恋愛に関しては「私たちの間にはケミストリーがなかったから、あり得なかった。あれは友情愛のケミストリーだったわ」とも述べている。

高校4年生になる直前、シャクールは目に涙を浮かべながら、ヒッケン氏に家族と共にカリフォルニア州マリンシティへ引っ越すことを伝えたそうだ。母親アフェニはそこで新たなスタートを切ろうと望んでいた。ヒッケンはシャクールが芸術学校を卒業できるようホストファミリーを探してあげると申し出たが、家族を​​見捨てることはできないと断り、一家は1988年の夏、ボルチモアを去ったそうだ。彼は後にGED(高校卒業と同等以上の学力があることを証明するための試験)を取得したが、家族を支えるため働き、卒業証書は取得しなかった。

このボルティモアでの4年間は、間違いなく2パックの芸術感性を高めた貴重な時間だったに違いない。【続く】

Key Takeaways

  • 2pacは25歳までに713曲を収録し、74百万枚のレコードを売り上げた。
  • 彼はブラックパンサー党の家庭で育ち、母親から黒人の誇りを教えられた。
  • 名曲『Dear Mama』では、アフェニとの複雑な関係や貧困生活を描いている。
  • 2pacはボルティモアでの生活が芸術感性を高める重要な期間だった。
  • 彼の演技力は高く、オスカー俳優になっていた可能性がある。

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