via @Lil Wayne instagram
2026年のGrammy Awardsが終わった。
その夜、Lil Wayneは短く一言だけ言った。「Congrats to the nominees and winners. Wasn’t included. As usual.」
祝福と自嘲が同じ一文に同居する。たった12語で自分の立ち位置を正確に言い当ててしまうあたりが、やはりこの男はリリシストなのだと思い知らされる。そしてこの言葉のトーンこそが、2026年のグラミーとヒップホップの関係——いや、もっと広く「賞と開拓者の関係」そのものを映し出している。
まず、その夜何が起きたかを整理する
Kendrick Lamarが主要部門を席巻した。Best Rap Albumは『GNX』、Best Rap Songは「tv off」、Best Melodic Rap Performanceは「luther」。さらに「luther」はRecord of the Yearも受賞した。
他にもClipseが「Chains & Whips」でBest Rap Performance、Doeciiが「Anxiety」でBest Music Videoを受賞している。
つまり、ヒップホップにとっては収穫の夜だった。ただし、その収穫がKendrick Lamarにほぼ集中していたという事実は、後で重要になってくる。
それにもかかわらず、Wayneの名前は呼ばれなかった
Lil Wayneは2025年に14作目のソロ・スタジオ・アルバム『Tha Carter VI』をリリースした。Billboard 200で初登場2位、初週108,000枚。数字だけを見れば、失敗作と呼べる要素はどこにもない。
にもかかわらず、2026年のグラミーで彼の名前は一度も呼ばれなかった。
ノミネートすらされない。これは「惜しくも受賞を逃した」という話ではない。選考の土俵にすら上げてもらえなかったということだ。その事実が、どうにも刺さった。
だからWayneはBill Belichickを引き出した
グラミーの結果を受けて、WayneはX上にこう書いた。
「As usual. I gotta work harder. One time for my slime Bill Beli」
Bill Belichick。NFL史上屈指の名将であり、New England Patriotsを6度のスーパーボウル制覇に導いた人物だ。その実績は議論の余地がない。にもかかわらず、プロフットボール殿堂入りの初年度では選出されなかった。
Wayneがこの名前を出した意味は明確だと思う。「実績がある。でも、それで必ずしも評価されるとは限らない。」 そしてその読みが正しいなら、Wayneは今の自分の状況をかなりはっきりわかっている。自嘲でも悲嘆でもなく、構造を理解した上での苦笑い——それがこのポストのトーンだった。
もともと、グラミーとWayneは歪だった
冷静に振り返ると、この関係は昨日や今日の話ではない。
Lil Wayneはヒップホップの文法そのものを塗り替えた人間だ。ミックステープ文化をメインストリームに押し上げ、DrakeやNicki Minajを世に送り出し、Auto-Tuneの使い方からフロウの概念まで、2000年代後半から2010年代の音楽を根底から変えた。
しかし「時代を作った功績」というものは、グラミーの評価軸では捉えにくい。グラミーは基本的に「その年の作品」を評価する仕組みであり、「この人物がいなければ今のシーンは存在しない」という種類の貢献にトロフィーを渡す設計にはなっていない。
つまりWayneは、**「今の基準で評価される存在」ではなく、「基準そのものを作ってきた存在」**なのだ。
日本にもいる——「評価されない開拓者」たち
この構図は、日本のヒップホップシーンに置き換えると、痛いほどよく分かる。
Zeebraを考えてみてほしい。 日本語ラップを「アングラの趣味」から「テレビで流れる音楽」に引き上げた功績は計り知れない。1997年の「真っ昼間」、キングギドラの活動、フリースタイルダンジョンの審査員——彼がいなければ、今の日本語ラップの地形図はまるで違うものになっていただろう。しかし、その功績が「今年の賞レース」で評価されることは、もうない。若いリスナーにとって彼は「昔の人」であり、それが正直なところだろう。
THA BLUE HERBも同じだ。 札幌という「中央」から最も遠い場所で、誰の許可も取らずにヒップホップを始め、「地方からでもやれる」という前例そのものを作った。彼らがいなければ、地方発のラッパーがここまで当たり前に存在する日本のシーンは生まれなかったかもしれない。だが、チャートの数字でTHA BLUE HERBの貢献を測ることは、ほぼ不可能だ。
あるいはDev Largeの名を挙げるべきかもしれない。 BUDDHA BRANDで日本語ラップの「言葉遊び」の水準を一段階引き上げ、サンプリングの美学を日本に根付かせた。2015年に亡くなった彼の功績が、どれだけ正式な「賞」で称えられただろうか。
さらに現行で言えば、般若の存在も見逃せない。フリースタイルバトルを文化として定着させ、テレビ番組『フリースタイルダンジョン』の「ラスボス」として日本語ラップの間口を爆発的に広げた張本人だ。バトルブームの火付け役でありながら、彼自身の音楽作品が「今年のベストアルバム」として語られる機会は驚くほど少ない。これもまた、「基準を作った人間が、その基準では測られない」という構造のど真ん中にいる例だ。
彼らに共通するのは、チャートや賞レースという「評価システム」が対応できない種類の功績を持っているということだ。そしてLil Wayneもまた、アメリカのヒップホップにおけるその位置にいる。
グラミーのパラドックス——「Kendrick総取り」が映すもの
2026年のグラミーでKendrick Lamarがヒップホップ部門をほぼ独占したことは、Kendrickの実力の証明であると同時に、ある構造的な問題も浮き彫りにしている。
グラミーは「分かりやすい物語」を好む。Kendrickは批評家受けも良く、リリカルで、社会性があり、グラミーの価値観と最も相性が良いタイプのラッパーだ。結果として、「ヒップホップ=Kendrick」という一極集中が起きた。
だが、ヒップホップとは本来もっと雑多で、混沌としていて、一人の天才に集約できるものではないはずだ。Lil Wayneの不在は、その混沌を整理して「分かりやすい授賞式」を作ろうとする過程で、こぼれ落ちたものの象徴なのかもしれない。
日本の音楽賞にも同じ傾向はある。日本レコード大賞が「今の日本の音楽」を本当に反映しているかと問われれば、多くの音楽ファンは苦笑いするだろう。評価する側の枠組みと、評価される側の現実のあいだには、常にズレがある。そのズレは、仕組みそのものが古くなっている証拠なのか、それとも「賞」という制度が宿命的に抱える限界なのか——おそらく、その両方だ。
ただし、この夜の騒動はWayneだけではなかった
司会のTrevor NoahがNicki MinajとDonald Trumpへの支持を皮肉ったジョーク。それに対するMinajの反応は、SNSで即座に拡散された。
「God will not be mocked. Blessed is the MIGHTY NAME OF JESUS CHRIST…」
政治、宗教、セレブリティ、ヒップホップ。2026年のグラミーは、それらの交差点になっていた。Wayneの沈黙は、この大きな混乱の中に埋もれかけていた。だが、混乱の中で最も静かだった声が、実は最も核心を突いていた——というのは、ヒップホップではよくある話だ。
賞は歴史を追いかける。カルチャーは先に進む。
Lil Wayneがグラミーに選ばれなかった事実は、やっぱりニュースだ。
ただ、本当のニュースは**「それでも彼が語られ続けている」**ことにある。WayneのBill Belichickへの言及がSNSで拡散され、無数のラッパーやファンが反応し、こうして海の向こうの日本でも記事が書かれている。トロフィーをもらえなかった人間について、これだけの言葉が費やされている。その事実自体が、逆説的に彼の影響力の証明だ。
Zeebra、THA BLUE HERB、Dev Large、般若——日本のシーンにも、「賞では測れない」存在はいる。彼らの功績はチャートの数字にも、授賞式のスピーチにも残らないかもしれない。しかし、今のラッパーたちが当たり前のように踏んでいる地面を、最初に耕したのは彼らだ。
賞は歴史を追いかける。カルチャーは先に進み続ける。そしてLil Wayneはいつだって、前者を待たなかった。
日本のシーンも、同じだ。最初に道を切り拓いた人間は、たいてい「今年のベスト」には選ばれない。でも、その道がなければ、「今年のベスト」自体が存在しなかった。その矛盾を、我々はもう少し真剣に考えてもいいのではないだろうか。
この記事について 海外報道と公開SNS投稿を一次情報として構成Ito Kotaroによって執筆されました。Billboard、Grammy公式発表、各アーティストのSNS投稿を参照しています。日本のアーティストへの言及は、筆者が日米双方のヒップホップシーンを継続的に取材・追跡してきた経験に基づく独自の分析です。特定の政治的立場や宗教的思想を支持・否定する意図はありません。
注意 ヒップホップ文化の文脈理解を目的とした記事です。
