日曜日, 12月 21, 2025

不屈の精神で挑み続ける京都発BrooklynラッパーR-Naby:紆余曲折ラッパー人生を赤裸々に語る

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Brooklynのジャイアン。このラッパーを見た時の第一印象だ。米国の、ラッパー激戦区のNYで、セルフプロデュース力と不朽の精神でここまで登り詰めた日本人ラッパーは他にいないだろう。その名も、R-Naby(アール・ネイビー)。SNSでも有名な彼が西海岸にライブに来ると聞きつけたので、早速インタビューのアポを取った。

SNSではアンチらと互角に戦い、なかなか癖のある自己顕示欲が強めのメッセージを投稿しているので、この御仁に対しかなりバイアスがかかった、偏見したイメージが先行しているのは否めなかった。筆者も若干構えていたのだが、実際に会ったR-Naby氏は、豪快な見た目も、情に脆そうな雰囲気もジャイアンそのものであった。饒舌で話術に富んでいるものの、裏表無く自身の弱みや弱点も素直に晒け出せる、正直さも持ち合わせている。なんとなく面白くなりそうな予感を胸に抱きつつ、サンフランシスコでライブをしてそのままAmtrakで南下してきた彼と、彼の華奢で美しい奥様とLAのユニオン駅で待ち合わせをし、そのまま彼らの滞在先近くのスタバでインタビューを行った。

ラッパーR-Naby(アール・ネイビー)とは?

Sei(以下S):今日はありがとうございます。NYで精力的に活動していらっしゃいますが、初めてという読者さんもいると思うので簡単な自己紹介をお願いします。

R-Naby(以下R):はい。1989年、京都府京都市西京区生まれ、京都育ち、18歳のころにラップを始め、Anarchy、Ryuzo、Magma MC’sに憧れ、京都でラップをスタートさせました。そこでそこからインディーズで5枚のアルバムを22歳までに出して、全国ツアーも28か所回って、京都と東京でリリースワンマン公演ライブを行って、その後2013年にアメリカに渡米して、そっから今に至ります。

S:じゃあ、東京で活躍したのは2011年とか2012年ですか?

R:あ、そうですね。2012年から2013年の1年半くらいっす。

S:ヒップホップにハマったきっかけを教えてください。差し支えなければ生い立ちとかも教えて頂けますか?

R:ヒップホップのきっかけは僕は13歳のころに、当時『8マイル』というEminemの映画が出て、そのDVDを買ったらその付録にCDがついていて、そこで50CentやEminem、DreやDMXとかTLCとか聴き始めて。姉が持っていたCDボックスの中にあったのが2Pac、Dreとかで、でも当時俺はあんまりヒップホップを知らなかったので、当時エミネムが大好きで彼を聴き始めたら『Stan』が流れてやばいじゃん、ってなって、そこからどんどんのめり込んでいって。

中学校1年2年で聴いたEminemと50centが強烈で、そこからDre、Snoop Dogg、Ice Cubeそれでも圧倒的に好きだったのが2Pacで、中1で13枚のアルバムをお金貯めて買って、そこからギャングスタヒップホップにハマっちゃって、当時の2pacの服装?赤い服にバンダナ巻いて、無地のロンTとSean Jeanのダボダボの履いて、1000円くらいで売ってる金のチェーンを…

S:1000円!まあ子どもでしたからね(爆笑)

N:そうそう。チェーンを2個ダブルチェーンにして(爆笑)サングラスも150円くらいのDAISOで売ってそうなやつをつけて、手をポケットに突っ込んで、ローソンの前でからあげクンを食べるっていう、不良ごっこをしていたのが入りです。

S:意外ですね。NYのNabyさんの入りがWest Coastだったとは。

N:恐らく当時はNYとか西海岸とか分かってないですね。50CentがNYとか根本的にNYどこ?みたいな。中一だったんで。単純に「かっこいい」ていうファッションや筋肉とかのいかつさ。そっから入って。場所とか関係なくて人物がかっこいいな、みたいな。

S:ラッパーなろうとしたきっかけは?

N:元々俺16歳くらいからクラブ活動始めてて。その当時は女の子メインだったんですけど(笑)、その当時DJがクラブでめっちゃモテててたんすよ。今でもそうだと思うんですけど、DJがすごくカッコよく見えたんすよ。で、俺もやってみたいって姉ちゃんに相談したら、ターンテーブル買うお金を半分出してくれて。レコード買うのとかも協力してくれて。とりあえず16歳でクラブDJデビューしました。

S:若いのにすごいですね~。

N:で、そっからDJ シュウマとして活動するんですけど、やっぱ難しい!俺当時R&BのDJになりたくて。DJ Komoriさんみたいな感じに。でもミックスが難しくて気づいたら1曲終わったら1曲流す、みたいな。

S:普通のつなぎ…(苦笑)。

R:そうそう!それしていた時に自分が恥ずかしくなってきて。ダサいっていうの気づいて、やめようと。全然女の子にもモテねーし。当時レゲエダンサーで可愛い子がいて、その子と喋りたいと思って喋りに行ったら、その子が当時あった「プラスダンススタジオ」で教えているから、来なよってなって。その子目当てで行って、のめり込んだんですよ。その当時俺はスマートだったんで、結構身体が動いたんですよ。で、3か月後にダンスショーケースがあるから出ない?ってなって。

S:ダンサーシュウマの誕生ですか?

R:ダンサーシュウマでお願いしますってなって。『SEED』って曲でDJ Lead君が経営してるクラブで初めてダンスしたんですよ。ダンスは1年間ぐらい頑張って。

S:それは…17歳くらいの時ですか?

R:そうっす。でもやっぱ不良だったんすよね。ダンスしながら不良しながら、バイトしながら、結構大変だったんすよ。で、俺の1個上の先輩に地元のラッパーいたんですよ。ダンサーってモテるんですけど、俺みたいなペーペーは全然モテなくて、そういう話を先輩にしたら「ラッパーってめっちゃモテるよ」って言われて。「ホントっすかー?」ってなって1回限りでやってみろってなって。「来月イベントやるから、お前それに1回限りで出てみ?モテるから」って。

それで1回出てモテなかったら辞めようって思ったんですよ。その時名前を決めようってなって、DJシュウマ、ダンサーシュウマで来てるからシュウマはもういらんわ、ってなって。俺出身が洛西って地域なんですけど、頭文字がRだったんですよ。ぶっちゃけ名前はどうでも良かったんすよね。そのときMagmaのRyuzoさん、Anarcheyさんとかのレーベル名が『R-Rated Radio』って名前だったんでそれも文字って「R-なんちゃらにしよう」って。それでR-Navyってなったんですけど。俺、紺て色嫌いなんすよねーってなって。当時赤が好きだったんですけど、AK-69さんってアーティストがめっちゃ売れてて、京都と名古屋近かったからよくライブに来ていたんですよ。

S:うんうん。AKさんね。

R:あ、ラッパー=赤みたいに。赤が好きで赤のバンダナしたり、赤がめっちゃ好きで「紺」は好きじゃなかったから「(紺色のNavyの)V」を「B」に変えようってなって「R-Nabyにしよう」って。こんな感じにで深い意味が無く決まったんですよ。その当時、(ライブチケットの)ノルマが30人~40人だったんですけど、当時俺不良だったんで、年下にめっちゃ売らしたんですよ。あっという間に売れて、その会場がパンパンになって。すっごいその時解放感を感じたんです。

S:あー、その一回きりのはずのパフォーマンスがね。

R:めっちゃ盛り上がったんですよ。そりゃ後輩とかだから盛り上がりますよね。その後、来月・再来月このイベントやってるから出ろよって言われて「いいんすか?」って感じで。それが始まりです。そっからのめり込んだんです。18歳。

NYに渡った理由

S:18歳。なぜ、NYを選んだんですか?入りは西海岸ですよね?

R:なぜNYかというと、これは大人の話になるんですけど、Visaのスポンサーがニューヨークだったから。それだけの話なんです。でもその経緯の方が大事で、なんでアメリカに行ったかっていう話なんですけど。

S:そうですね。なんでアメリカに行ったんですか?聞かせてください。

R:結局はインディーズレーベルで、京都でずーっとやって全国ツアーも出来るようになりました。で、手売りで2000枚売ったんですよ。地元で。それは、後輩に手伝ってもらったんですけど、精力的に動かして、それでお金も稼ぎたかったんです。それを何回か繰り返して、自分の主催イベントで、有名な人が来てくれるようになったんですよ。AK君とかも俺が19歳くらいから来てくれるようになったんすよ。今では大御所になったHokutoさんとか呼べるくらいになったんですよ。やっとAnarchy君主催のイベントにも若手で3年間くらい入ってたんですよ。やっと行ける!みたいなもしかしたら俺メジャー契約できるんじゃないかな?みたいに勝手に思い込んでて。大阪のラッパーとか当時の神奈川のラッパーとかメジャーレーベルからリリースしてる人が増えていったんですよ。でも、俺だけが「あれ?」みたいな感じで。京都でもワンマンしたし、東京でもワンマンしたし。結果、なーんも声かからず。すごい「俺は大物になる!」みたいなこと言ってても現実は…。

S:それは、挫折みたいな感じですか?

R:そうそう。めっちゃ偉そうなこと言ってるけどその割には結果がついて来ていない、みたいな。でもやっぱ当時21歳とか何で、悔しくて。あと、その時2チャンネルでもめっちゃディスられてたんすよ。

S:2チャンネルかぁ(笑)

R:2チャンネルで3万レスくらいついて。めっちゃディスられて一時はもう家から出られないくらい落ち込んじゃったんですよ。

S:え!今の鋼のメンタルはどこに?

R:その当時は豆腐メンタルというか昆虫のメンタルでして(爆笑)

今でも5千レスくらいはアーカイブ残ってるんじゃないかな?その当時Twitterが流行りだして。俺、女好きだったんで、R-NabyじゃなくてH-Naby(エッチ・ネイビー)とか言われて。それがネットで広まるんすよ。あいつは色んな女に手を出してる、みたいな噂流れてそれプラス2チャンネルで書かれて。「俺、終わった~」って感じになったんです。真面目に運送屋で働こうかとかまで思ったんですよ。でも同時に、仲間らが色んな悪いものを売るからいろいろツケが溜まるんすよね。京都のヒップホップはギャングの世界だったんで、売り切れなかったら「ヘタこく」ヘタ料金が凄かったんすよ。でも生き残るにはそうするしかなかったんですよ。俺その時クレジットカード切りまくってたんですよ。借金地獄になっちゃったんすよ。ホントの話、俺姉に「自殺する」って言ったんです。

S:それは、21歳の時?

R:そうっす。借金が凄すぎて、精神的にも落ちて落ちて落ちて…ってなった時に、借金はあるし、もうこれ以上音楽は出来ない!ってなったんですよ。次は親に迷惑をかけるし苦しめることになるから、俺はあんま日本にいない方がいいんじゃないかって思いだして。でも、それを世間には言えない。借金があるとか。だから調子に乗って「NYに挑戦する!」とか言っちゃったんですよ。そしたら「あいつNY行くらしいぜ」ってそれがドンドン広まっちゃって。

S:(大爆笑)引き返せなくなっちゃった。

R:しまいには、親にも言ってなかったから姉から聞いたらしくて親も「あんたNY行くんだって?」って聞かれて。VISAとかそういう話は今弁護士としてる、とか伝えて。当時、ラッパーとしての実績もあったし、コネもあったので、色々お金を払えば大丈夫だったんです。それで上手いこと渡米出来て。

でも、内心は成功できなかった、借金があった自分を隠す理由だったんですよ。

S:そうなんですね…。こんな赤裸々に話して頂いてありがとうございます。めっちゃリアルですね。

R:今だから言えるんです。全てチャラになったから。そのまま、ここですね。それがきっかけです。

S:SNS上で見るR-Nabyさんの印象と違いますね。で、NYへ。なるほど。

R:実際はNYの1年後ロス(ロサンゼルス)に来ようと思ってたんすよ。Facebookにも書いてましたし。

S:でも結局NYに13年滞在している、と。

R:だからそろそろ…って思ってます。

NYでのラッパー生活のリアル:オープンマイクに挑戦

S:ヒップホップカルチャーに溶け込んでいくにあたって、ライブハウスに毎晩飛込みしていたとかお話し聞きましたが、苦労した点とかお話を聞かせて頂けますか?

R:俺の場合はNYに先輩がいなかったんですよ。例えばDJだったら当時先輩がNYにいっぱいいて、DJは比較的しやすかったと思うんですけど、ラッパーの先輩っていなかったんですよ。当時居たのが、Omen44君ってラッパーだったんですけど彼が唯一知っている日本人ラッパーだったんですよ。その前がBuddha Brand世代だったんで。でもOmen君俺とは12歳くらい離れてるし、もうそろそろ彼もリタイアって感じだったんですよ。その時に出会ったんですよね。でも、俺は日本で上下関係とかいろいろ揉めてきたんで変なプライドがあって「日本人の力は絶対使わない!」って思ってたんですよ。日本人とはつるまないって感じで。

でもNY来た当時は英語もしゃべれない、お金もない。お金は30万しか持って来なかったんすよ。でも、その30万のうち家賃の敷金で10万引いたら20万しか残らなくって。俺アメリカ到着の次の日からキャバクラで働いたんですよ。NYに午後3時に着きました。スーツケース持ったそのまま5時に面接行ってるんですよ。俺NJに住んでいたのにそっからどうやってタイムズスクエア行くんだ?ってなって。行き方分からなかったからとりあえずタクシー乗って。よくタクシーはぼったくられるって言うけど、その時150ドルくらいかかって案の定ぼったくられて(笑)。で、それ引いたら17万くらいしかないんすよ(恐らく当時1ドル=100円くらいの為替相場と想像する)。

そのキャバクラのバイトは週250ドル、賄い付きで結構良くて3か月くらい頑張ったんすよ。でも、3か月後くらいから「俺、何しにNY来たんだろ?」って自問自答が始まって。俺、キャバクラボーイになるために来たんじゃないってなって。その時Facebook見ていたらなぜだかオープンマイクの動画が急に上がってきて。オープンマイクとは?ってなって。1曲サインアップして、並んでみんなの前で歌うってイベントがあるってのが分かって。とりあえず探しに行こうと思って。

S:おお、スゴイなぁ行動力が。

R:で、すぐ調べて次の日に色んなライブハウス…200件くらいは入って「I wanna Sing! Do you have open mic?」って聞いて。そのオープンマイクが出来る場所がやっと見つかって。『Freestyle Monday』ってイベントが毎週月曜日Brooklynにあると。で、それに俺毎週通うことになったんですよ。色んなラッパーが来るわけですよ。当時50人くらいと情報交換して、今日はここでオープンマイクしています、今日はここでやってるみなシェアを始めるんです。それがどんどん広がって行って、その時にパッと閃いたのが、これ毎日やったら面白いんじゃない?365日オープンマイクってヤバくない?ってなって。

S:やばいやばい。

R:でも、金がないと。ボーイの仕事って夜じゃないですか。

S:オープンマイク行けないですよね?

R:ということは、仕事変えないとだめだねってなって。俺、辞めたんですよ。

S:はや!

R:俺、「炙り焼き金之助」って飲食店の皿洗いの仕事が朝5時から午後3時まであって。賄い付きがあって。そっちの方が良いってなって。で、これみんな聞くんですけど、俺本当に毎日行ったんですよ。というか、毎日オープンマイクがあったのが、当時のニューヨークだったんですよ。多い時は一日4件はしごして。思えば俺はラッキーだったんですよね。だって今オープンマイクやってないっすから。あんまり。

一日1件は必ずどこかでやってて。毎日やってるとこもあったんですよ。

S:それはどれくら続けたんですか?

R:えっとね、約2年…1年8ヶ月です。でも、そこから、だんだん自分に懐疑的になるんですよ。毎日オープンマイクやってるけど、俺はもっと上に行きたい。どうしたら次俺は、フライヤーに名前が載るのか?どうやったら黒人と共に一緒に並べてライブが出来るのか?ということを考え始めた時に、たまたまブッキングエージェントとオープンマイクで出会ったんですよ。

S:おー、運命!

R:それが『More Booking Agency』ていうNYででかいブッキングエージェント会社なんです。そこでAggy(アギー)って奴が俺の担当者になったんすよ。俺めっちゃ嬉しくて。契約書も読まずに契約しちゃって(笑)。でも蓋開けたらフライヤープロモーション全てエージェントが用意する。その代わりノルマが全イベント15万以上。でもフライヤーには名前が載る。だからそこでアーティスト力をつけて、上に行けるだけのことを学んでください、みたいな感じが書いてあって。それがあればファンも聴く人も増えるから、と。でも俺はとりあえずフライヤーに名前がクレジットされかった。で、とりあえず2年やる、と。日本で言うノルマ地獄でしたよ。

S:それは何歳くらいの時だったんですか?

R:NY来て丁度4年目くらいですね。25歳~26歳の頃ですね。でもね、だんだん呼べなくなってくるんですよ。じゃあたまにはチケットが20ドル。15枚売ると300ドルなんすよね。もう自腹ですよ。

S:ああ…そこで地獄が始まるんだ…。

R:でも、昼間のバイトはずっと極めていたんで、レストランのスキルが上がってきたんですよ。皿洗いからどんどん下剋上して。

S:え、調理とかも?

R:めちゃめちゃしました。その時は俺ラーメン屋のセカンドシェフにまでなっていました。でも、その時は週800ドルくらいキャッシュでもらっていて、当時としては悪くない給料で稼いでいて。でも、ノルマ地獄で。且つレコーディングもしなきゃいけないし。

そこからノルマ地獄を2年間過ごしてたんですけど、ちょっと話を戻してボーイ時代にUniversalの関係者がNYのキャバクラに遊びに来たんですよ。その時俺は覚えていなかったんですけど、その人が俺に何になりたいの?って聞いたら「俺ここで有名になりたいんすよ」って目をガンガン光らせて言ったらしくて、その人となぜかFacebookを交換したんです。それからその人ずーっとおれの活動をFB通じて見てくれていて。俺の活動を知っていて2017年の2月3月くらいにFBから連絡が来て。で、どこかと契約していなければUniversal Gearの方で契約どうですか?って。それでそこで日本のメジャー(レーベル)と繋がったんです。

S:それが…27歳の時?

R :そうっす。2017年の2月。そこから今に至るっていう。

S:そのNYのブッキングのアギーさんとは?

R:まだ超仲良いです。たまーにイベント出るくらいですけど。でももうノルマとか一切ないので。

こうしていれば良かった談とA-Thugさんについて

S:あのR-Nabyさんといえば、SNSでアンチと戦ったり、私の中で「我が道を突き進む鋼のメンタル」っていう印象が強いんですが、こうしておけば良かったな?みたいな経験はありますかね?

R:こうしておけば良かった…は、プライドを捨ててもっと日本人とつるんでいれば良かったって思いますね。そうしたらもうちょっと違う景色があったんじゃないかなって。俺は黒人とつるむって道を選んだから、それはそれで間違いではないんすよ。でも、俺は日本人をシャットダウしちゃったんで、それは良くなかったかなって思います。今となれば。

S:今の周りのホームボーイズは皆非日本人ですか?

R:そうっすね。ここ最近日本人コミュニティにも関わるようにしようとしてるんで。俺素直になれなかったんですよ。

S:でもそういう方、けっこう海外に住んでいる日本人に多くて。やっぱ日本人とつるまないで頑張る!みたいな方もいるんですけど。やはりセーフティネットというか、最後頼りになるのは日本人だったりすることもあるのでね。

あの日本人繋がりになりますが、NYには今A-Thugさんとか活躍されているじゃないですか?

R:活躍はしてないです(大爆笑)

S:活躍されてないんですか?フリースタイルバトルとか、オープンマイクとかも?

R:彼は「自分音楽作ってるだけだから」って言ってて。ライブも1回だけかな?そのOmen君のイベントで。

S:A-Thugさんとコラボ予定とかないんですか?

R:彼とは俺の『So Japan』をリミックスをさせてくれ、と頼まれたんですけど。それは無理なんですよ。

S:何でですか?

R:いや、『So Japan』があるから今の自分がある、くらいの曲なんでこれがあるからNYで戦えてるし、色んな人と出会えてるし、そんな安い曲じゃないんですよ。今じゃない、っていうか。でも他の曲だったら是非コラボしたいですね。俺、彼に色々バイトも紹介しているし(笑)

S:なるほどね。

R:でも彼からは、「R-Naby君は有名な日本人アーティストと一緒に何かやったら絶対バズるから!」とは言われましたね。

S:あー、わかるような気がします。ではこの記事を読んだ日本のアーティストさんから連絡が来ると良いですね(笑)

R:もう30後半でもうプライドとかなんも無いですからね!ブレイキングダウンとか、ラップスターとか出てみたいですし。

新アルバム『Self Made』と今後のビジョン

S:次は今のプロジェクトとか、今後のビジョンとか教えてくれますか?

R:今度『Self Made』ってアルバムを出すんですが。実は1年半前くらいにメジャーレーベルを離れたんですよね。Sony MusicのOrchardってとこから。ちゃんと数字見ると、結構数字渡してるんだなってとこに気づいちゃって。やっぱみんな独立レーベルしてて。俺結婚を考えた時に、これじゃだめだろ?って。生活していかないと行かないし、お金どうこうじゃないよね?って改めて自分で計算したんです。どれぐらい取られてるのか、手元に残ったのは?とか計算したら毎月結構あって、もったいなくない?ってなったんですよ。自分の会社を作ったので、それを個人事務所にしようと思ったんです。それが『Branding Zero, inc』なんですけど。それに変えたんです。違約金を払ってでも脱したかったんです。

それでこの間1枚目のアルバム出して、で、今回独立2枚目のアルバムが『Self Made』なんです。今までアルバムに色んな人が携わってきたんですよね。でも結構自分一人で出来ちゃったんですよ。ジャケット作りとか、MVとか。今AIの時代ですし。曲とか著作権管理も人に頼んでたんですよ。今までやってた資料作りとかも全て人を使ってたんですけど、今回から全部自分でやって。結局いままでやってきた事はなんだったんだ?ってお金の無駄を知ったんですよね。それプラス売り上げから引かれている。それで、あ、自分で作った。セルフメイドしちゃったって。で

だから、今まで使ってた人とか縁は全部切ったんです。

S:うーん。なるほど。

R:無駄なお金を減らすっていうのは、生活のためだったんです。自分でできることだったんで。だからこれをもっと極めようと思って。VlogとかYouTube動画とか。セルフメイドで出来る範囲は。それが今のプロジェクトですね。

S:楽曲は何曲?フューチャリングとかいるんですか?

R:9曲です。今回サンフランシスコのラッパーとKTP君がフューチャリングしてます。彼の縁でサンフランシスコでライブしてきました。

S:その中で一番印象的だったのが、お父さんとか家族の歌なんですけど。

R:あー、今回2曲入ってるんですよ。お父さんの曲。

S:私が観たのは窓辺でラップしてる『With Family!RIP Dad』って曲ですね。どういう思いで作られたか教えてください。

R:俺、15で家を出たんすよね。そこからすぐ東京出て、東京からすぐこっち(アメリカ)来てるんで、親との時間が圧倒的に少ないんすよ。で、借金も作って来たし。親父に関してはもう15年位会ってなかったんすよ。会ってなかったのに亡くなっちゃって。だから、そこだけが悔いだったんです。丁度2025年の元旦に亡くなったんです。絶対忘れない命日。その親父が亡くなってこの一年間、家族と連絡とるようになったんですよ。親父がきっかけで、姉もお袋もNY来てくれるとか。そうなったら15年ぶり位に会うんすよ。お互いいつ死ぬかわからないから、会える時に会おうっていう風になりました。だから親父のお陰で今ファミリーは頑張ってるよ、って。親父だけじゃなくて、家族みんな笑ってるよって。

S:それを曲にしたんですね。

R:あともう一曲『親父』って曲があるんですけど、それは親父が亡くなって3日後くらいに書いたんですよ。だから、そっちの方が生々しいんすよね。

どっちを先にMVにしようか悩んだんですけど、ちょっとこっちは生々しすぎるから『With Family』の方出したんです。でも、もうこういう曲は2度と作らないと思います。

King of BrooklynことMainoとのコラボについて

S:なるほど。でも、これからも家族が増えるかもしれないし(Naby氏は結婚1年目)、これからのNabyさんの人生のフェーズを曲にして頂けると面白いですよね。あの、今まで色々プロジェクトに関わってきたと思うんですが、特に印象に残ったプロジェクトは?

R:やっぱり一番記憶にのこっているのは「King of Brooklyn」ことMaino(メイノ)と一緒にコラボさせてもらって、そのおかげでBillboardに取り上げてもらったのが俺のNY人生の中で一番凄かったかな、って。やっぱりMainoとやることいやって黒人からのリスペクトがすっごく増えたんすよ。活動がBrooklynでしやすくなったんですよね。「あいつはBrooklynで、Brooklynのアーティストを立てて、ちゃんとBrooklynをリスペクトして、Brooklynをレぺゼンしてくれた」って。俺の拠点はBrooklynなんですよね。NYじゃないんです。でもそのためには、Brooklynの大御所Mainoに一回は頭下げてお金払って曲をやらせてもらうことで、すごい評価が上がるんで。そのおかげで今相当やりやすいんですよ。Brooklynで。そのお陰で今NYから離れられないんですよね。

S:Mainoさんはどういう人なんですか?性格とか?

R:といってもMainoは49歳とかだから、現役バリバリで…妻も会ってるんですけど、当たりは優しいけど怒ったらこわいんだろうなって感じです。普通のベテランラッパーの貫禄で。今Brooklynには「Maino Day(メイノ・デー)」ってあるんすよ。6月18日。

R-Nabyの今後の拠点は?

S:今もNY拠点ですが、今後はどうなりますか?

R:これはねー、まだどのメディア媒体にも話していないんですけど、とりあえず2026年は1年間NYでもう1枚アルバムを出して、そして最後自分の「ラストNY 」ってライブイベントをスタジオ借りて招待制で150人呼んでプライベートパーティーを企画しようと思っています。

S:それは、どういう事ですか?

R:まあ言い方はあると思うんですけど、良い意味で俺NYに飽きちゃったんすよね。すっごい良い意味で。めっちゃ我儘な性格なんすけど、NYよりも更に良い景色がロサンゼルスにあるんじゃないかって。自分が初めてCDを開けて、初めて聴いたアーティスト、ほれ込んで真似をしていたアーティストの…。

S:2Pac?

R:2Pacじゃないですけど、コンプトンの黒人の中に揉まれて行きたいな、って思ってます。それをやってる日本人いないんで。

S:ラッパーは…聞かないですねぇ。DJはまあ、2highさんとかいらっしゃいましたよね。

R:そうそう、ラッパーは聞かなくて。だから「俺でしょ?」ってなって。めっちゃ面白そうでしょ?やはり最近俺の周りで挑戦している人が多いんですよね。見ててカッコよいんすよ。やっぱ俺、挑戦したいんすよ。もっと。あと人生で3~4回はチャレンジしたいんですよ。

S:まだ36歳ですからね。まだまだですよね。

R:そうなんす。やっぱ挑戦ってカッコいいんすよね。で、R-Nabyさんいつも挑戦してるじゃないですかって言われるんですけど、今俺そんなに挑戦していなくて、今の自分は守りに入ってるんですよ。でもそれじゃ一緒で変わらないので。守りは守りで最低限度やって、でも挑戦しないとステータスが上がらないんですよ。だから、アメリカでもう一回挑戦したい。

なんで、2026年はアルバムもう1枚出して、そしてラストNYのライブイベントをSOHOで行おうと思っています。それも計算済みで。その物語のストーリーの延長線上で、そのままLAに引っ越すと。

俺、ラッパー以外に今NYでコンサル業もやってるんですけど、それも打ち切ることも伝えて。もう言ってしまったらやるしかないから。ある程度苦しい思いをしないと良い曲に変わっていくので。経験がものを言うのがヒップホップなので。

俺、3年以内にはバズるんで!

S:今から10年後はR-Nabyさんは何をされていると思いますか?

R:恐らく俺、3年以内に俺バズるんですよね。

S:(大爆笑)あはははは!隣に座ってる奥さんも大笑いしていますけど!

R:1回でもバズれば、俺拠点を日本に戻そうと思っていて。例えばですけど、明日バズります。そしたら、明後日帰ります。そんな勢いです。それを言ったら奥さんは「最低でも1週間はいないといけないよね」って言ってましたが。

S:そりゃそうだ。現実的に(笑)

R:で、その3年以内。LAにいる間にバズらせて、帰ります。

S:では最後の質問です。今後海外を目指すラッパーやHiphopCs読者に何かアドバイスがあればお願いします。

R:まずアメリカに来る人は、プライドを捨てろ、と。で、私はアメリカに行ったら絶対日本人とは話さないとか関わらないとかそんなプライドは捨てろ、と。そして出会う全ての人に感謝して、出会う全ての人が次の縁を繋げてくれるから、それを初めから分かっていたら素晴らしいアメリカライフが待っているよ、と伝えたいです。あと、英語力とお金は持ってきた方がいいですね(笑)

あと、HiphopCsは日本のベースのヒップホップニュース媒体だと思うので…これ読んでいる方にアーティストがいれば、色々な人とコラボさせてもらいたいです!俺はNY全部案内できるんで、一緒にコラボしてツアーしたいです。そのお返しで日本連れて行って欲しいです。

S:素敵ですね!ありがとうございます。

という事で約1時間のインタビューが終わったが、最後はR-Naby節が大いに炸裂していてなかなか面白い時間を過ごした。豪快なNaby氏の話はぶっ飛んでいるようで、なかなかリアルである。また、ドラッグ等の誘惑が多い街でビジネスを起こし、ラッパー業以外でもしっかり地に足をつけて生き抜いているのは意外であった。自身で3年以内にバズると豪語しているが、是非近々バズって日本に帰ってもらいたいものである。R-Naby氏の挑戦は続く…。

R-Nabyさんのインスタ:https://www.instagram.com/r_naby_official_nyc?igsh=MXNwYjAzZXQyYnpzdw%3D%3D&utm_source=qr

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