木曜日, 7月 3, 2025

【速報】シュグ・ナイト、2パックの1996年の死に関する新主張:ディディと2パックの母親の関与について

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たまにふと思う。もしまだ2パックが生きていたら、と。素晴らしい演技力でハリウッドからも引っ張りだこだった彼なら、きっとラップをしていなくても、アメリカを代表する大物俳優になっていたかもしれない。もしくは、シュグと同じように若気の至りが祟って、長い間収監されていたかもしれない。あるいはスヌープや他のOGのように、実業家として活躍していたかもしれないし、子供や孫に囲まれていたかもしれない。

People誌が独占インタビューを行った、久々のSuge Knight(シュグ・ナイト)関連記事。その中には既存の事柄もあれば、初めて聞く衝撃的な内容も含まれているので、お届けする。

2パック殺害事件についてのおさらい

一応、2Pac (2パック)殺害事件についてのおさらいをしよう。1996年9月7日の午後11時頃、当時31歳でデス・ロウ・レコードのCEO、且つ、音楽業界で最も恐れられていた大物実業家だったMarion “Suge” Knight(マリオン・”シュグ”・ナイト)は、黒いBMW750セダンでラスベガスのストリップから1ブロック東へ走っていた。その助手席に同乗していた当時25歳のラッパー、Tupak Shakur(トゥパック・シャクール/2パック)は、ラスベガスでのMike Tyson(マイク・タイソン)のボクシング試合のわずか数時間前に、カジノでギャングのClips(クリップス)のメンバーと激しい口論をしていた。これは、Orlando “Baby Lane” Anderson(オーランド・”ベイビーレーン”・アンダーソン)とSouthside Compton Clips(サウスサイド・コンプトン・クリップス)のグループが、デス・ロウの関係者Trevon Lane(トレヴォン・レーン)を強盗しようとしたとされる事件がきっかけである。アンダーソンを見つけると、パックは彼に立ち向かい、乱闘騒ぎとなった。そして、2パックと彼の取り巻きは、アンダーソンを襲撃した。この乱闘の様子はホテルの監視システムにも記録されていた。

そしてその夜。フラミンゴ通りとコヴァル通りの角で、シュグと2パックの黒のBMWの隣に白い最新型キャデラックが並んで停まったという。ラスベガス検察が2024年7月に提出した書類によると、オーランド・”ベイビーレーン”・アンダーソンは適切な角度で撃てなかったそうだ(つまり、狙撃に失敗したということ)。これは、12月に提出された別の裁判所の書類で、彼が容疑者として挙げられていたことを受けてのことである。アンダーソンは、ギャング仲間のDeandre “Big Dre” Smith(デアンドレ・”ビッグ・ドレ”・スミス)に拳銃を手渡したとされ、スミスは車の後部座席から合計13発の銃弾を発射した。4発の銃弾が2パックの胸、腕、太ももに命中したそうだ。ナイトは頭部に破片がかすめたものの、一命を取り留めた。普段は防弾チョッキを着用していたパックだったが、その夜は着用していなかったという。そしてこの出来事はギャングと関係の深いレーベルや権力などの利害関係を生じ、30年近くも「未解決」事件として扱われていた。尚、アンダーソンは1998年にギャング抗争の銃撃戦で命を落とし、狙撃犯のスミスは、2004年に「自然死」している。

キーフ・Dとディディの関与について

だが、2023年9月。元クリップスのリーダーであり、あの夜白いキャデラックに乗っていた最後の生存者として知られるデュアン・“キーフD”・デイビスが逮捕され、襲撃を計画した罪で起訴された。検察は、デイビスが何十年にもわたってヒップホップ界を悩ませてきたこの殺人事件の立役者だったと主張している。2024年7月18日付けの衝撃的な法廷文書で、クラーク郡地方検事局は、長らく埋もれていた2009年の警察の尋問を公開した。その中でデイビスは、2年間元秘密情報提供者として話しており、殺人における自身の役割を詳細に語っただけでなく、トゥパック・シャクールの暗殺を命じたとされる人物として、当時Puffy(パフィー)として知られていた音楽界の大物Sean ”Diddy”Combs(ショーン・”ディディ”・コムズ)を繰り返し名指ししていた。DEAと米国司法省はまた、2008年のインタビューに関する報告書も公開した。その中でデイビスは、ディディが「ナイトとシャクールを排除する必要がある」と発言し、「問題に対処する」ためにデイビスに100万ドルを申し出たと主張している。だが、ディディ自身は銃撃事件への関与を強く否定しており、ラスベガス市警察の広報担当官は2024年7月24日、「ショーン・コムズがトゥパック・シャクール殺人事件の捜査において容疑者とみなされたことは一度もありません」と述べているという。

2 パックの最後と母親の決断

2パックの最後だが、シュグはまた、自殺をすると天国へ行けないと強く信じていた、痛みに悶えていたパック本人から「俺を撃ってくれ」と殺害を依頼されたとされる証言や、母親のAfeni(アフェニ)氏に「解放してくれ」と懇願していたとされる証言(シュグによると、アフェニ氏はその後に彼の望みを叶えようと、死を促進させる薬を投与したとされる)など、悲惨な話を提供した。「医師たちが来て、あいつを蘇生させたんだ。すると母親が、『二度とあんなことをしないで。もし合併症を発してるなら、彼に触れてないで頂戴』と言ったんだ」シュグは、息子が命を懸けて闘う姿を十分に見届けた後、アフェニ氏が医師たちに伝えたメッセージについて語った。「彼を蘇生させないで。彼を開放してあげてちょうだい」結果、2Pacは1996年9月13日午後4時過ぎ(太平洋標準時)に亡くなった。2パックの死後、シュグは、パック自身が別の葬儀形態を希望していたにもかかわらず、アフェニ氏が即時火葬を主張したと述べていた。「(2パックは)こう言ったんだ。『俺が死んだら、葬式に来たラッパー全員にマイクを握ってもらいたい。頭からつま先までキスしてほしい。『Life Goes On』みたいにね』と。彼は火葬を望まなかったんだ」とシュグは主張した。結局彼は関係者に100万ドルを現金で支払って2パックの火葬を行ったという。ちなみに、母親のアフェニ・シャクール氏は、2016年5月2日に69歳で亡くなった。

シュグ・ナイトの発言の信憑性

今年に入ってから牢獄内でインタビューを受け、ディディ裁判からRay-J(レイ・J)、Snoop(スヌープ)とデス・ロウ・レコーズに至るまで、様々な発言をしているシュグ・ナイト。時に自分に都合よく曲解し、呆れる虚言も目立つが、2パックに関しては「あいつは世界で一番好きな奴だった。あいつは俺の人生を永遠に変えた、俺の一部だった。あいつが死ぬ必要なんてなかった。奴が死んだ時、俺の一部も死んだんだ」と声を震わせながら語ってもいたので、誇張はあっても虚言はないのかもしれない。もちろん当事者が亡くなり、関係者も存命している者が少なくなってきた今、彼の言動や行動に確証は無い。

ラップ力や演技力は言わずもがな、文化的影響力やカリスマ力、若者に必要な才能全て兼ね備えた彼のような存在は、30年近く経った今でもまだ現れない。アメリカのエンターテイメント業界は、本当に惜しい人材を失ったものだとつくづく思う。キーフ・Dの裁判は、2026年の2月まで延長となってしまったが、2パック関連のニュースは、できる限り追ってお届けしようと思う。

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