月曜日, 3月 31, 2025
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今さら聞けないヒップホップ!米国ヒップホップに貢献した女性ラッパー達について語ろう(前編)

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50Cent(50セント)が昨年末ポッドキャストに登場して「昨今の女性ラッパーの音楽は性的過ぎて若い女性に悪影響を及ぼしている」と彼女らの一面性すぎる表現に懸念を示していた。彼曰く、ヒップホップにおける女性の基準が大幅に下がった、と。筆者的は今さら?っと思ったものの、確かに昔に比べセクシャル系なラッパーの数は、多くなっているような気がしないでもない。日本含め今月3月8日は国際女性デーだったのだが、アメリカでは3月は一か月まるごと「Women’s History Month(女性の歴史月間)」と公的に制定している。その目的は、歴史、文化、社会に対する女性の貢献を認識し、祝福し、男女平等を求める継続的な闘いについて考える機会の提供らしい。今回の50のコメントも今回この記事を書くきっかけになったので、読者の皆さんも一緒に女性ラッパーの歴史を振り返って考えて欲しい。今回も長編コラムとなりそうなので、前中後編と3回に分けて掲載しようと思う。

この間ThreadsでPlayboy Carti(プレイボーイ・カーティ)信者の若者(と筆者は推測する)が90年代ラッパー達を「老害」とをディスっていたのを目にしたんだけれど、そもそもヒップホップというジャンルのMCの成功は、古い形式を破壊しその破片を操って新しい自己表現スタイルを生み出す意欲に基づいている。古い形式ありきの音楽なのだ。80年代と90年代には、男性ラッパーも女性ラッパーも、韻を踏んだ言葉遊びを繰り返し、拡張されたメタファーを使ってダークで、暴力的で、ロマンチックで、希望に満ちた経験を語り、自分自身をヒーロー、目撃者、予言者として位置づけていた。音楽業界が女性の貢献を軽視してきた歴史を考えると、ヒップホップを「男性寄りの音楽」と明言してしまうのは簡単である。にもかかわらず、このジャンルの初期の頃、批評家がまだヒップホップを一時的な流行だと嘲笑していた一方で、女性ラッパー達は、彼女たちが住む世界に対する解釈や経験を遠慮なく詳細に表現し、このジャンルの生物学において強力な一部分を作り始めていたのだ。彼女たちは皆、スタイル、流れ、歌詞の内容に明確な違いがあるものの、共通していたのは激しくも独立した声(ボイス)と、一貫して響き渡る自分らしさを保つ力であったのだ。

Roxanne Shanté(ロクサーヌ・シャンテ)

今年のグラミー賞で、「生涯功労賞」の栄誉を受けた初の女性ソロラッパーとなった人物から紹介しよう。ラップ界で「ファーストレディ」と呼ばれているRoxanne Shanté(ロクサーヌ・シャンテ)は、独特のしゃがれ声と、恐れ知らずのリリカルパワーで、男性中心だった1980年代のヒップホップ界に、独特の風格を漂わせた。1969年生まれの彼女。自身がまだ10歳であったにもかかわらず、母親が彼女を地元のラップバトルに出場させ、50ドルを獲得した時からバトルラッパーとしてのキャリアが始まったという。地元で男の子達をラップで制し続けていた彼女は、1984年15歳だったとき隣人のMarlon Williams(マーロン・ウィリアムズ)A.K.A.プロデューサーのMarley Marl(マーリー・マール)から、初期のヒップホップレコード、U.T.F.O.の『Roxanne Roxanne』の作成中トラックに韻を踏んでほしいとの依頼を受けた。そこからマーリー・マールのJuice Crew(ジュース・クルー)唯一の女性ラッパーとしてのキャリアを開始する。1980年代後半にツアーを行い、1988年の『Go on Girl』、1990年の『Independent Woman』、1992年の『Big Mama』など一連のシングルをリリースした。だが彼女はCold Chillin’ Records (コールド・チリン・レコーズ)から2枚のアルバム『Bad Sister』(1989年) と『The Bitch Is Back』(1992年) をリリース後、25歳で一時期音楽業界から引退し、大学に戻って学業に専念することになる。

Ms. Melodie(ミス・メロディ)

伝説のBoogie Down Productions(ブギーダウンプロダクション)のクルーの一員であり、BDP創設者KRS-ONE(KRSワン)の元妻であるMs. Melodie(ミス・メロディ)。奇しくも2012年に43歳という若さでこの世を去ったラッパーは、Jive Records(ジャイブ・レコーズ)と契約し、1989年にデビューアルバム『Diva』をリリースした。ソロレコードは1枚しか発表していないものの、ミス・メロディは BDPのレコードで印象的なパフォーマンスを披露し『Hype According To Ms. Melodie』や『Live On Stage』などの印象的な曲で、姉のHarmony(ハーモニー)と共に当時のヒップホップ界に広く知られるようになる。姉のハーモニーはその後ゴスペル歌手に転向するが、ラップと歌を操る初期の先駆者でもあった。メロディはその後も客演を続け、後年出演した作品の1つはBDPが主役の名作『Stop The Violence』の『Self Destruction』のビデオであった。KRSワンとは1992年に離婚したものの、彼とは2人の息子をもうけ、離婚後も元夫のサポートを続けた。また、後述するQueen Latifah(クイーン・ラティファ)の『Ladies First』のMVにも登場している。

MC Lyte(MCライト)

筆者も大好きなMC Lyte(MCライト)。ソロラッパーとして初めて自身のフル アルバムをリリースした MCライトの『Lyte As A Rock』は1988年にリリースされた。ライトの鼻にかかった声質、フローと歌詞の正確さ、そして自己検閲を拒否する勇敢な姿勢は、すぐに業界の注目を集めたそうだ。彼女によると、初期のシーンは競争的でスキルベースであったが、性別による偏見がなかったわけではないと述べていた。「プロモーターが、私に相応の報酬を支払ってくれないこともあったかもしれないわね。ラインナップでは私の曲にふさわしい場所に、私を配置しなかった。だけど、それらがさほど私に影響を与えたわけではないわ。挫折はあったかもしれないけど、私は決してそれに左右されなかった」1993年『Ruffneck』が最優秀ラップシングル部門のグラミー賞にノミネートされ、MCライトはグラミー賞にノミネートされた初の女性ラッパーとなった。それのみならず、彼女はカーネギーホールでパフォーマンスした最初のラップアーティストであり、ゴールドシングルを獲得した最初の女性アーティストでもあり、この業界の女性ラッパーとしてはパイオニアとして位置づけられている。

Queen Latifah(クイーン・ラティファ)

今やヒップホップ界の重鎮のひとり。名実ともに「女王」となったQueen Latifah(クイーン・ラティファ)。今年のオスカーで、故Quincy Jones(クインシー・ジョーンズ)をトリビュートし、まだまだ現役であることを証明してくれたが、彼女はもともとJungle Brothers(ジャングル・ブラザーズ)、De La Soul(デ・ラ・ソウル)、 A Tribe Called Quest(ア・トライブ・コールド・クエスト)などとともに活動するニューヨーク地域の伝説的なNative Tongues crew(ネイティブ・タングス・クルー)の一員であり、ヒップホップ界の初期ラッパーの一人である。The Native Tongues collective(ザ・ネイティブ・タングス・コレクティブ…80年代後半から90年代前半にかけて活動した前向きで温厚なアフリカ中心主義の歌詞で知られるヒップホップアーティストの集団)は社会意識が高く、歌詞の内容がポジティブなことで知られていたが、ラティファは黒人女性の生活における問題を語ることによって名声を得た。『Ladies First』や『UNITY』などの代表曲では、家庭内暴力、ハラスメント、女性同士の連携の必要性についてラップし、変化を求める力強い声となった。

Salt-N-Pepa(ソルト・ン・ペパ)

なんとなんと、こんな伝説的な女性ラッパーたちについてウィキペディアの日本語ページが無いことに驚きなのだが、筆者は彼女らあたりから女性ならではのセクシーさと美しさ、強さを融合させたラップが確立されて行ったように思う。1985年にふたりのラッパー、Cheryl James(シェリル・ジェームス)とSandra Denton(サンドラ・デントン)が手を組んだとき、レコード業界の多くはまだヒップホップは一時的な流行だと信じていたそう。Salt-N-Peppa(ソルト・ン・ペパ)と名乗った2人組は、Doug E Fresh(ダグ・E・フレッシュ)のヒット曲『The Show(ザ・ショー)』に応えて『The Showstopper(ザ・ショーストッパー)』をリリースした。短いショートパンツとへそ出しシャツに身を包んだこの2人は、90年代のセクシー系ラップの旗手となった。『Push It』『Do You Really Want Me』『Let’s Talk About Sex』『Shoop』などの曲で、ソルト・ン・ペパは自分たちの欲望やセクシュアリティについて率直に語り、同時に尊敬を求め、フェミニストの価値観を説き、暴行や差別に反対を唱えた。

Lisa ‘Left Eye’ Lopes(リサ・レフトアイ・ロペス)

90年代通してヒップホップ界を席巻したガールズグループ、TLC。当時の元カレから新しいガールズグループの募集の知らせを聞いたリサ・ロペスは、オーディションを受けるためにアトランタへ引っ越した。当初は2nd Nature(セカンド・ネイチャー)という女性3人組としてスタートしたものの、後にグループはTLCと改名された。その当時ロペス以外メンバーは定着していなかったものの、新しいメンバーを募集してレフト・アイとして再出発する。TLCは、地球上で最も有名な、ラップとR&Bが融合したグループの1つとして絶大な名声を得た。可愛らしい容姿が繰り出す、ロペスのMCとしての巧みなリリシズムは、世界中のラップ愛好家から称賛を得た。2002年に交通事故で悲劇的に亡くなるまで、ラッパーとしてTLC以外でも活躍しており、ヒップホップの一つの時代を象徴する人物となった。

Yo-Yo(ヨーヨー)

当時ギャングスタラッパーIce Cube(アイス・キューブ)の弟子的ポジションでデビューしたYo-Yo(ヨーヨー)。ラッパーとしての才能と、美しい容姿の相乗効果で90年代初頭、人気を集めていた。1990年にアイスキューブのアルバム『AmeriKKKa’s Most Wanted』のトラック『It’s a Man’s World』にゲストとして初めて登場。アイスキューブ自身は逆にヨーヨーの1991年のデビューアルバム『Make Way for the Motherlode』に収録されている『You Can’t Play with My Yo-Yo』にゲストとしてフィーチャーしている。彼女の特徴は、女性のエンパワーメントの必要性に触れており、ラップに頻繁に見られる性差別や女性蔑視を非難していることである。彼女は業界でフェミニズム運動を公然と支持し、その熱心な支持者である最初の女性ラッパーのひとりであった。

(中編に続く)

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