ついに日本でもブランド展開を始めたSnoop Dogg(スヌープ・ドッグ)率いる、Death Row Records(デス・ロウ・レコーズ)。このレーベル名と、今獄中から色々と暴露して世間を騒がせている元経営者のSuge Knight(シュグ・ナイト)の名前は知っていても、この超有名なレーベルの歴史や遍歴はあまり日本で知られていない。今回は原宿で日本初のPop-Upストアが期間限定でオープンしていることも記念して、このレーベルについて振り返ってみよう。またしても長文になりそうだが、読む準備はできているかな?
デス・ロウの始まり
時は遡って1986年。N.W.A.の一員だったDr. Dre(ドクター・ドレ)はRuthless Records(ルースレス・レコーズ)と契約した。彼はレーベルの制作責任者になり多数のRuthless Recordsプロジェクトをプロデュースし、その多くが成功を収めた。しかし自分の役割に対して報酬が少ないと感じたドレは、ルースレスに対し不満を抱き始めた。1989年Ice Cube(アイス・キューブ)が同レーベルを去った後、ドレの友人で後にボディーガードとなったSuge Knight(シュグ・ナイト)とThe D.O.C.は、Jerry Heller(ジェリー・ヘラー…N.W.A.の元マネージャーでルースレス・レコーズの共同創設者)からの離脱方法を模索し始めた。ドレとシュグ・ナイト、The D.O.C.、そしてDick Griffey(ディック・グリフィー)は自分たちで新しいレコードレーベルを作ることを決心した。新音楽ベンチャーの名前は当初、Future Shock(フューチャー・ショック)と呼ばれていたが、The D.O.C.がDef Jam(デフ・ジャム)をもじり「Def Row(デフ・ロウ)」という名前を提案しという。とはいえ、既に誰かが命名権を得ていたり(この人物は後に権利をドレに売却している)、紆余曲折を経て1992年グループは最終的に名称をDeath Row Records(デス・ロウ・レコーズ)に決定した。その際、シュグ・ナイトは獄中のMichael “Harry-O” Harris(マイケル・“ハリー・オー”・ハリス)に、新しく設立されたレコードレーベルの親会社としてGodfather Entertainment(ゴッドファーザー・エンターテイメント)を設立するよう打診した。ハリスには投資する資金があり、シュグのビジョンとソロアーティストとしてのドレを信じた。ゴッドファーザー · エンターテインメントはデス · ロウ · レコーズとして知られるようになる。当時デス・ロウのオフィスには、獄中のハリスがかけられる専用電話が設置されていたという。ちなみにこのマイケル・“ハリー・オー”・ハリスは、1980年代にロサンゼルスのサウスセントラル地域でかつて「ゴッドファーザー」として知られていた人物であり、Bloods(ブラッズ)やClips(クリップス)などのギャングに加え、コロンビアのカルテルと組んで日々200万ドル近い収益をもたらす、全米規模の麻薬密売活動を行っていた。ハリスは1990年にロサンゼルスで麻薬密売と殺人未遂で有罪判決を受け、2021年当時のDonald Trump(ドナルド・トランプ)大統領による恩赦で自由を得るまで、33年間の服役していた。シュグ収監後、長らくデス・ロウ・レコーズは閉鎖されたものと多くの人々は思っていたが、ハリスは釈放されるとすぐに仕事に戻り「新デス・ロウ・レコーズ」のCOO(最高執行責任者)としてスヌープ・ドッグと業務提携した。
つい最近まで、シュグ・ナイトが『Ice Ice Baby(アイス・アイス・ベイビー)』のVanilla Ice(バニラ・アイス)に対し、印税が支払われていないことを言いがかりに恐喝していた、との噂が流れていた。この曲の権利をシュグに引き渡すことに署名しなければ、彼を15階のバルコニーから投げ落とすとほのめかしたというストーリーだったが、後のインタビューでバニラ・アイス自身がその噂を否定している。「俺を脅迫なんてしていなかったよ。彼は(部屋に)入ってきてこう言ったんだ。”聞いてくれ、ここは俺の街だ。ここで仕事をするなら($を)支払わなければならない。他の人もみんなそうしてる」とシュグが述べたと、彼はインタビューで語った。「シュグは俺をバルコニーから吊るす必要も、平手打ちする必要も、何もする必要がなかった」とラッパーは続ける。「そんなことは決して起こらなかった。実際、彼は優しかったから、それはそれでホントに変な感じだった。彼はマジで親切だったよ。ただ彼は身体がデカかったから、本当に奇妙な感じだった」だがこの権利を得たことで、デス・ロウの経営資金が潤沢になり、様々なプロジェクトが動き始める。
初期のデス・ロウ・レコーズ
レーベルの最初のリリースはドクター・ドレのアルバム『The Chronic(クロニック)』で、これは大成功を収め500万枚以上を売り上げた。このアルバムにはヘヴィーなベースライン、シンセサイザーのメロディー、ゆったりとしたビートが特徴的なG-Funk(Gファンク)の特徴的な西海岸サウンドがフィーチャーされていた。またスヌープ・ドッグ、Warren G(ウォーレン・G)、Nate Dogg(ネイト・ドッグ)、Daz(ダズ)、Kurupt(クラプト)などの新世代のラッパーやシンガー、プロデューサーをメインストリームに紹介した。その後1993年にリリースされたスヌープ・ドッグのデビューアルバム『Doggystyle(ドギースタイル)』は『The Chronic(ザ・クロニック)』を上回る成功を収めた。
デス・ロウvsバッドボーイの東西抗争
ニューヨークのClinton Correctional Facility(クリントン矯正施設)でTupac Shakur(トゥパック・シャクール)を訪問後、シュグ・ナイトは当時Bad Boy Entertainment(バッドボーイ・エンターテインメント)を率いていたSean “Puff Daddy” Combs(ショーン・“パフ・ダディ”・コムズ)について挑発とも取れる発言をした。彼はニューヨークのラップシーンのリーダーだったが、シュグ・ナイトはバッドボーイに不満を持つアーティストたちにデス・ロウに参加するよう声をかけた。この行動は西海岸対東海岸のラッパーをめぐる緊張を高めた。読者もご存知の通り1995年から2000年頃まで、アメリカでは西と東の2つのラップシーンがしばしば激しく衝突していた。1995年、シュグ・ナイトの側近が射殺されたものの、パフ・ダディは銃撃への関与を否定しており、事件は現在も未解決のままである。銃撃後、シュグ・ナイトは刑務所にいる2Pacを訪ね、140万ドルの保釈金を支払った。そして2Pacは、デス・ロウ・レコーズでアルバム制作を開始した。対してドレは、レーベル内で激化するシュグ・ナイトの暴力行為に不満を募らせていた。彼は2Pacの『All Eyez on Me(オールアイズ・オン・ミー)』の2曲に参加したものの、1996年にデス・ロウ・レコーズを正式に脱退しAftermath(アフターマス)を結成したため、2Pacはドレに反旗を翻すこととなった。この頃、レーベル創設に関わったThe D.O.C.とディック・グリフィは、ドレとシュグが彼らを故意にデス・ロウ運営から省いたとして、1997年に彼らを訴えている。
2Pacの死
知らない人も多いが、かのMC Hammer(MCハマー)も一時期デス・ロウと契約したアーティストのひとりである。1995年にデス・ロウと契約したものの、2Pacの殺害後、彼はレーベルを離れた。スヌープはDaz(ダズ)をプロデューサーに据え、2枚目のアルバム『The Doggfather(ザ・ドッグファーザー)』を作成し、同時期2Pacも『The Don Killuminati: The 7 Day Theory(ザ・ドン・キルミナティ:ザ・セブンデイ・セオリー)』を制作していた。だが、残酷にも運命の歯車が狂いだす。1996年シュグ・ナイトと2PacがMGMグランド・ホテルでギャングメンバーを襲撃している様子が監視カメラに捉えられた。その夜遅く、2Pacは車上からの銃撃で4発撃たれ、6日後帰らぬ人となる。わずか25歳であった。
ビジネスの失速
デス・ロウの財政難はアーティストの楽曲の広報にも影響を与えた。1996年パーティーで死亡した関係者の遺族から請求された多額の賠償金を支払うことができず、破産宣告を余儀なくされた。翌年1997年2月28日、シュグ・ナイトは仮釈放違反で有罪判決を受け、懲役9年の判決を受けた。この有罪判決により、Interscope Records(インタースコープ・レコーズ)はデス・ロウとの配給契約を解除した。レーベルに対するシュグの支配力は弱まり、ネイト・ドッグ、スヌープ、クラプト、Lady of Rage(レディ・オブ・レイジ)といったアーティスト達が脱退した。その後も塀の中から過去のアーティスト達の未収録曲や再リリースでレーベル経営を粛々と続けていたシュグだったが、マイケル・ハリスの役割に対する認識も薄れていた2005年。デス・ロウの50%の株式と未払いのロイヤリティーとして彼の妻、Lydia Harris (リディア・ハリス)に1億700万ドルを支払うよう命じられた。その影響もあり、2006年4月4日、遂にデス・ロウ・レコーズとシュグの両方が連邦破産法第11章の適用を同時に申請した。この過程で無担保債権者が名乗り出たため、シュグはレーベルの管理コントロール権を完全に失った。その後、2021年までデス・ロウ・レーベルの権利は以下の過程をたどる。
- 2009年、WIDEawake Entertainment Group(ワイドアウェイク・エンターテイメント・グループ)がデス・ロウのオークションにて1800万ドルで落札し、レーベルを購入する。
- 2012年に同社は破産し、レーベルとカタログをEntertainment One(エンターテイメント・ワン)という上場企業に売却。このグループは、デス・ロウのミュージックライブラリ資産購入のために600万ドルを投資した。
- 2019年8月23日、アメリカの玩具会社Hasbro(ハスブロ)は40億ドルでエンターテイメント・ワンを買収すると発表。レーベルの所有権が米国最大の玩具メーカーの1つに譲渡された。
- 2021年4月、ハスブロはBlackStone Groupに売却すると発表。この買収は2021年6月に完了した。
シュグ・ナイトは2015年1月29日、N.W.A.の伝記映画『Straight Outta Compton(ストレイト・アウタ・コンプトン)』のコンサルタントであったCle “Bone” Sloan(クレ・“ボーン”・スローン)とコンプトンのハンバーガースタンド外で口論となり、ピックアップトラックでスローンとビジネスマンのTerry Carter(テリー・カーター)を轢き、現場から逃走した。これにより、スローンは負傷し、カーターは死亡した。シュグは2018年9月21日、殺人、殺人未遂、ひき逃げの罪で起訴され、28年の刑期を言い渡される。
スヌープのデス・ロウ時代の幕開け
さて、時は戻って2022年2月9日。スヌープ・ドッグはデス・ロウ・レコーズの商標権を取得したと発表した。スヌープ曰く、ドレはこの買収に反対していたという。「いや、俺がデス・ロウを買収したとき、ドレは気に入ってなかったさ。あいつはそれについて声を大にして言っていたよ。そのことについて話をしてはいたけど、同時に奴は俺が何をしているのか知らなかった。誰も知らなかった。俺は成功した人生を送っていたから”問題”に対処する必要は全くないのに、なぜあいつはわざわざ問題事に手をつけたがるんだ?って風に見えたようだよ」レジェンドは続ける。「俺は自分の遺産を見た。俺に関係する、未完の仕事に関しては終わらせる必要が幾つかあった。そして、デス・ロウの美しい音楽をかけて、デス・ロウで幸せな時間を過ごし、死ではなく生を与えることは、俺の遺産を守るためでもあった」
難色を示していたドレに対し、スヌープのメンターでヒップホップ界における「令和の虎」的ポジションにいるMaster P(マスターP)はこの買収についてこう語っている。「スヌープが多くの逆境を乗り越え、自身がスタートした会社を買収できる立場にあることを誇りに思うよ。これは、上司を育てることがすべてであることを示している。俺が思うのは、No Limit(ノー・リミット)は大学であり、スヌープはそこを通った最上級生のような気がするってことさ」
この売却にはレーベルのカタログに対する権利が含まれていなかったものの、2022年2月11日、彼は同レーベルから3枚目のスタジオ・アルバムをリリースし、26年ぶりにレーベルで復活した。スヌープによるデス・ロウ・レコーズの買収には、もともと2Pacやドレのアルバムの権利は含まれていなかった。2022年3月4日、彼は『Doggystyle』や『The Chronic』を含む、デス・ロウ・レコーズから以前にリリースされたすべてのアルバムの権利を取得したと発表した。また上記の通り、33年間服役していたLAサウスセントラルの「ゴッドファーザー」ことマイケル・“ハリー・オー”・ハリスもCOO(最高執行責任者)としてスヌープとパートナー関係を結び、現在に至っている。ちなみに昨年の大統領選挙におけるスヌープのトランプ大統領サポート要因の1つは、このハリスへの恩赦だったと言う。実業家としても天才的才能を発揮しているスヌープは購入以来、そのレーベルの知名度を生かし精力的にビジネス展開している。1991年にドレとシュグによって設立されたこのレーベルのユニークなサウンドと才能あるアーティストの銘々は、黄金期の1990年代以降ヒップホップの方向性を形作るのに大きく役立った。スヌープが残そうとしているこのレーベルの遺産(レガシー)は、Kendrick Lamar(ケンドリック・ラマ―)からYe(イェ)まで、今世紀最も成功しているアーティストのサウンドとスタイルの中に垣間見ることが出来る。そして、今後も影響し続けることだろう。
人は元来、自分の過去に起きた忌まわしい出来事や面倒事は、忘れようと試みたり教訓を生かしその後の人生で避けて生きようとする習性を持っている。にもかかわらず、悪名高かったレーベルを買い取り、過去を清算しつつポジティブなものに変えようとしているスヌープの思考や行動力。彼が天才と言われる所以がここにあるように思う。デス・ロウの歴史についておさらいしたついでに、今日はレーベルの紅涙とバイオレンスのノスタルジア溢れる美しい楽曲を、大音量で聴いてみよう!