西海岸の大御所、Snoop Dogg(スヌープ・ドッグ)。彼がDr. Dre(ドクター・ドレ)に発掘されてデビューし、そこからギャングスタ路線を走って、現在は事業を展開したり時事問題にコメントしたりして、ラッパー業以外でも活躍をしているのは、読者の皆さんもなんとなくふわっとご存知だろう。だが彼について聞かれても、このOGについてちゃんと説明できる人は少ないようだ。日本語でも幾つか彼の半生についての記事や動画はあるが、本サイトの読者にも改めてこのレジェンドについて紹介したい。

スヌープ・ドッグの幼少時代
我らが敬愛するスヌープ・ドッグは、1971年10月20日にカリフォルニア州ロングビーチでCordozar Calvin Broadus Jr. (コルドザール・カルビン・ブローダス・ジュニア)として生まれた。母親が漫画「ピーナッツ」のスヌーピーに似ていると思ってつけたニックネーム「スヌーピー」が、彼のラッパー名の由来である。幼いころから音楽に興味を持っていたので、地元のバプティスト教会でピアノを弾き、歌を歌い、その後小学6年生でラップを始めたそうだ。余談だが、彼の新アルバム『Missionary(ミッショナリー)』でSting(スティング)を客演に迎えている『Another Part Of Me(アナザー・パート・オブ・ミー)』で珍しくラップのみならず自身の歌声も披露している。Compton(コンプトン)で育った彼は高校卒業後麻薬所持で何度か逮捕され、刑務所で過ごしたこともある。そして、Rollin’ 20(ローリン20)のClips(クリップス)ギャングにも所属していた。トラブルから抜け出す方法として音楽を作り始め、いとこのNate Dogg(ネイト・ドッグ)と友達のWarren G(ウォーレン・G)と一緒に213として初期のデモを録音した。そのうちの1曲がウォーレン・Gの義理の兄弟であるDr. Dre(ドクター・ドレ)の目に留まり、ドレはスヌープをオーディションに招待した。そこで彼らは、同名の映画のサウンドトラック用に「Deep Cover」という曲を共同制作した。そしてスヌープは1992年にドレの大成功を収めたファーストソロアルバム、『The Chronic(ザ・クロニック)』の主要ラッパーの一人となった。
Death Row Records時代
ドレがプロデュースしたスヌープのデビューアルバム『DoggyStyle(ドギースタイル)』(1993年)は、シングル「Who Am I (What’s My Name)?(フーアムアイ~ホワッツ・マイネーム~?)」と「Jin and Juice(ジン・アンド・ジュース)」の成功もあり、ビルボードのヒップホップチャートとトップ200チャートで第1位に上り詰めた。彼らの成功で、Death Row Records(デス・ロウ・レコーズ)は業界で知名度を上げ、その黄金時代を築いた。ドレが自身の『ザ・クロニック』で確立したGファンクが相性良くスヌープのラップとマッチし、彼の名声を一気に押し上げた。次にリリースした『Murder Was the Case(マーダー・ワズ・ザ・ケース)』という短編映画のサウンドトラックは、ダブルプラチナムになった。その次のアルバム『Tha Doggfather(ザ・ドッグファザー)』(1996年)も、契約問題でデス・ロウを去ったドレが不在だったにもかかわらず、チャートのトップに到達した。だが、この後東西合戦や同レーベルのラッパー2Pacの死で栄華を極めていたデス・ロウの経営が傾いていく。この悪名高いレコード会社をスヌープ自身が買収するのは、まだ先の2022年2月のことである。
恩人Master PとNo Limit時代
あまり語られていはいないが、筆者は個人的のこのMaster P(マスター・P)とのエピソードが好きである。なぜならマスターPとの出会いが、スヌープのその後の人生を大きく変えたからだ。Suge Knight(シュグ・ナイト)と同レーベルの経営に危機感を抱いたスヌープは、彼らと手を切る方法を模索した。2016年のインタビューでスヌープはこう語っている「2Pacが死んだ後、俺はデス・ロウといくつかのトラブルに直面した。奴らはブチ切れていたから、それは俺にとってヤバいぐらいマジで深刻だった。そこでマスターPが名乗り出て、奴は『シュグと交渉する』と言ったんだよ」スヌープは、マスターPに自分にとって何が大切かを語り、そしてPercey Miller(パーシー・ミラー…マスターPの本名)という男が、デス・ロウからの釈放を交渉をしてくれた。ちなみにマスターPはこの時、シュグ・ナイトに3ミリオンダラーを支払ったという。その上、彼を契約から解放するだけでなく、まったく新しい生き方をスヌープに教えた。彼はスヌープに自由を確保したことに加え「マスターPは俺にお金をくれて、ニューオーリンズに家を与えてくれて、(シボレーの)サブバーバンを2台買ってくれて、しかもすべて俺の名義にしてくれた」と語った。「俺の名前に何かが入ったのはこれが初めてなんだよ。すべてはシュグ・ナイト名義だった…家族をニューオーリンズに連れてきて、生き方、ペースを落としてビジネスをする方法を教えてくれたんだ。なぜなら俺はショーのことは学んでいたが、ビジネスのことは知らなかったからだよ。ただのスタンドアップマンだったんだ」マスター・Pのビジネスやり方とデス・ロウでの経験との違いをさらに強調する中で、スヌープは自分の待遇はNo Limit Artists(ノー・リミット・アーティスト)全員の扱いと同じであったと強調した。「奴(マスターP)について一つ言えることは、あいつがビジネスを主導していると、誰もが本当に望むような経営方法でビジネス展開し、全員が何かを持ったら、全員が責任を負うという形だったんだ。つまり、奴はあんたにタダでモノを与えたわけではなかったんだ。それを稼がなければならなかった。そして、それを得たとき、自分の名義で記す。奴は獲得方法と失う方法を教えてくれた。だからもし失ったら、それは自己責任なんだ」そして、1998年スヌープはノーリミットレコードに移籍して『Da Game Is to Be Sold, Not to Be Told(ダ・ゲーム・イズ・トゥ・ビー・ソールド、ノット・トゥ・ビー・トールド)』(1998年)、『No Limit Top Dogg(ノーリミット・トップドッグ)』(1999年)、および『Tha Last Meal(ザ・ラストミール)』(2000年)をリリースし、継続的な成功を収めた。この頃にはギャングスタな色合いがトーンダウンし、落ち着いたラップに変更したのも彼の歴史を物語る特徴の1つである。ちなみにマスターP自身は、スヌープのデス・ロウ離脱に一役買ってはいたものの、最終的に窮地を救ったのは、スヌープ自身の謙虚さと年長者(マスターP)の言うことに耳を傾けようとした姿勢だったと回顧していた。
路線変更時代
2004 年にチャートのトップを獲得したシングル『Drop It Like It’s Hot(ドロップ・イット・ライク・イッツホット)』などPharrell Williams(ファレル・ウイリアムズ)との大ヒットを発表したり、同年ウォーレン・Gやネイト・ドッグと213を再結成したりして活躍した後、ラッパー業以外のことにも挑戦を始める。『Starsky & Hutch(スタスキー&ハッチ)』、『The Wash(ザ・ウォッシュ)』、『Training Day(トレーニング・デイ)』などのの映画に出演した。彼はまたテレビ番組にゲスト出演もし、2007 年のリアリティ番組『Snoop Dogg’s Father Hood(スヌープ・ドッグのファザーフッド)」にも妻シャンテと3人の子どもたちが出演した。その後、2012年に名前を「Snoop Lion(スヌープ・ライオン)」に変更しレゲエソングをリリースし、カリフォルニア州の大麻使用合法化に順じ、大麻ビジネスに投資してブランド化した初のセレブリティとなった。それだけではなく、マリファナ関連のニュースに焦点を当てたMary Jane(メリージェーン)という新しいデジタルメディアベンチャーも立ち上げた。その後、再びファレルとタッグを組みアルバム『Bush(ブッシュ)』(2015)をリリースしたり、『Neva Left(ネヴア・レフト)』(2017)を発表したり、ゴスペルアルバムに挑戦したりなど、精力的に楽曲を出していた。また2016年からは、テレビ局VH1の『Martha & Snoop’s Potluck Dinner Party(マーサ&スヌープのポットラックディナーパーティー)』で、その好感度MAXなおとぼけキャラを効果的に利用し、新たなファン層を獲得した。カリスマ主婦(且つスヌープ自身は脱税で服役していた彼女をギャングスタの極みと呼んでいる)マーサ・スチュワートと仲良いタッグを組んでお茶の間の人気者となった彼は、ビジネス方面でも自身のメディア会社「DoggVision(ドッグビジョン)」や「Snoopadelic Films(スヌーパデリックフィルム)」などのいくつかの会社を立ち上げた。オンラインストア www.SnoopOfficialStore.comやアパレルストアで自身の名を冠した関連商品なども、販売を開始している。それ以外でも、自分をマスコット化することを厭わず、Sketchers(スケッチャーズ)やJack in the Box(ジャックインザボックス)などの大手ブランドとコラボ企画を発表し、業界内での地位と名声を確固たるものにした。そして先述した通り、2022年。ついに彼は自身の始まりとなったレーベルのレガシーを残すべくデス・ロウ・レコードをMNRKミュージックグループから買収する。レーベル名にまとわりつくネガティブな印象を払拭すべく、しかしそのネームバリューをうまく活用して、関連商品を販売したりや新たなアーティストの楽曲をリリースしたりと精力的に活動している。
IQ147
最後に、スヌープの数ある名言の中で筆者がお気に入りのものを紹介する:「Surround yourself with people who are better than you, So you can get better(自分より優れた人たちに囲まれれば、自身もよりよくなる)」これは、常に新しい事や上を目指すスヌープらしい格言であるし、筆者も100%同感である。書き忘れていたが、彼は2020年自身のIQが147であることも公表している。これはギフテッドクラスであり、日本では自称天才オタキングの岡田斗司夫氏と同じくらいである(岡田氏は148)。最近は自身とドレ名義でオリジナルのお酒を発売したり、最新アルバム(上記参照)をリリースしたレジェンド。これからも、この天才がどんな意表をついたことをしてくれるのか。私達ファンに何を届けてくれるのか。期待に胸を膨らませているのは筆者だけじゃないはずだ。
余談
ノーリミット全盛期、楽曲内での「アー、アー」という合いの手を苦手としていたし、あまり才能が無さそうな身内をデビューさせたりしてマスターPに良い印象を持っていなかった筆者だが、ここで改めて陳謝する。申し訳ございませんでした。彼の漢(おとこ)っぷりにはリスペクしかないし、彼がスヌープに与えたインパクトは計り知れない。もしマスターPがスヌープをデス・ロウから救っていなかったら、アーティストとしても実業家としても大成功を収めている今のスヌープは存在しなかったかもしれないのだ。当時誰もが恐れていたラスボスのようなシュグ・ナイトと交渉し、且つスヌープの頭の良さに目をつけ教育を施したマスターPの男気と先見の明(ただし繰り返すが、身内に甘い)。その上マスターP自身はその事について決して手前味噌にはならず、聞かれたら答えるという謙虚なスタンスである。余談だが、筆者はルイジアナ在住時、スヌープが引っ越してきたと聞いて家を見に行ったことがある。大物ラッパーが西海岸から、娯楽が映画館とブロックバスタービデオ(当時存在していたレンタルビデオ屋)しかないド田舎のルイジアナに引っ越してきて、地元が沸いていたのを覚えている。その当時、マスターPがスヌープのためにシュグと対峙したことも、彼が用意した家だったとも露知らず。近年、パズルのピースのように色々なことが明るみなって、何十年も前の点が他の点と結ばれ線になっている。なんなら筆者も若かりし頃、音楽やニュースを聴いたり、クラブに繰り出したり(今は死んで…シンデレラルールで12時までに就寝)、『Word Up!(ワードアップ)』『Essense(エッセンス)』『Spice!(スパイス)』などの雑誌を読み漁っていたが、その頃からのヒップホップや業界に関する「無駄だと思っていた」知識を活かし、今はこうやって文章を綴っている。人生とは面白いものだ。